【第16話】そとはや
「そっかぁ。ギター始めたこと、萌衣たちにも知られちゃったのかぁ」
昼休みに入って、私たちは今までのように、屋上へ向かう階段の踊り場に集合していた。
速水さんはただ事実を確認していただけだったけれど、それでも私は申し訳ない思いを抱く。意味はないと分かっていても、「ご、ごめん……」という言葉が、半ば無意識に出てしまう。
「外崎さんが謝る必要なんてないよ」と慰められても、私は速水さんに悪いことをしたという思いを拭い去れない。もし、明日にでも元に戻ったら、速水さんは必要のないギターの練習を続けなければいけないだろう。
「まあ、あたしもいつまでも隠し通せるとは思ってなかったからね。バレるのが遅いか早いかの違いぐらいしかないと思ってたから。外崎さんが気に病むことじゃないよ」
「でも、速水さんが責められる要因を作っちゃったのには、違いないよね……?」
「それもいいって。ギターを教えてって言い出したのは、あたしの方なんだよ? こうなることも予想できなかったわけじゃないし。外崎さんは何も悪くないよ」
「で、でも……」
「ねぇ、外崎さん。また今日もギター教えてくれるんだよね?」
私は小さく頷いた。速水さんが続けたいと願っているからには、応えなければならないだろう。
速水さんは頬を緩めて、安堵の表情をしている。そこに寄与できていることに、私もまたほっとしていた。
「じゃあ、外崎さん。今日もよろしくね。あたしさ、教則本に載ってる単音弾きの譜例、けっこう弾けるようになってきたと思うんだよね」
「あっ、もちろん自分ではって話だよ」少し慌てたように付け加えた速水さんが、傲慢でもあり謙虚でもあったから、私は口の端を小さく持ち上げた。
踊り場は暖かい日差しが差しこんでいることもあって、たおやかな空気に包まれている。
この状況なら言える。そう思って、私は勢いをつけて口を開いた。
「ねぇ、速水さん。ちょっといいかな」
「何? どうしたの?」
「私、文化祭出ようと思う」
その言葉を口にしたら、引き返すことはできない。以前の私からは考えられないような、非常に大きな決断だ。
それでも、私は速水さんの目を見て、はっきりと口にした。仕方なしで言っているわけではないことを、分かってもらうために。
「えっ、本当に?」
速水さんは目を瞬かせている。今このタイミングで言われるとは、思っていなかったみたいに。
そのすぐには受け止めきれていない態度に、私は「うん、本当」と言葉を重ねる。一言一言を発していくたびに、私の心はより強く文化祭に向かっていく。
「私さ、高木さんに『ギター聴かせてよ』って言われちゃったんだ。それを私は断れなくて。でも、いきなり一曲弾いて歌ったら、上達速すぎないって怪しまれちゃうでしょ? だから、文化祭に向けて練習してたってする方が、期間的にも不自然じゃないし、どうせ高木さんたちの前で弾かなきゃならないなら、いっそのこと文化祭で演奏するのもいいかもって思ったんだ」
「いや、それは分かるんだけど、でもそれなら、萌衣たちの前でだけ弾くのでもよくない? 外崎さん、人前で歌うのあまり好きじゃないんでしょ?」
「うん。前まではそうだったよ。でも、速水さんの前で演奏してから、人前で歌うのも意外と悪くないかもしれないって、思い始めてるから」
「いや、でも大丈夫? 誘った私が言うのも何だけど、文化祭じゃ何十人もの前で歌うことになるんだよ?」
「うん、分かってる。正直大丈夫だとは言い切れない。でも、私がんばるから。がんばって練習して、大勢の人の前で歌えるようにするから」
「まあ、外崎さんががんばるって言うんなら、あたしも拒む理由はないけど……。でも、本当に大丈夫? あたし、無理に頼みこんじゃったかな」
「そんなことないよ。これは速水さんのためだけじゃなくて、私のためでもあるんだから」
「外崎さんのため?」
「そう」私は声に力を込めた。心に巣くっている不安を、押しこめるかのように。
「ほら、前高木さんたちと出かけたとき、速水さん、クラス企画のクイズラリーだけでいいのかなみたいなこと言ってたでしょ。それ聞いて、私も色々考えたんだ」
「その結果が、文化祭のステージに立つってこと?」
「うん。私さ、何もないんだ。クラスでもいてもいなくてもいいような存在で、毎日自分を殺して、ただ日々をやり過ごして、卒業する日をじっと待ってる。このままじゃ私の高校生活、何一つ残らないって思ったんだ。何年かして振り返ってみて、何もない虚無の時間だったって思っちゃいそうだなって。速水さんに『それだけでいいのかな』って言われてから、それが無性に怖くなってきちゃって。何か一つでいいから、この学校に通っていた証や思い出を作りたいなって思ったんだ」
自分で言っていても分かる。これは単なるわがままだ。このまま高校生活を通り過ぎたくないから。その思い出作りのために、速水さんを利用していると思われても仕方ない。
でも、私は今言った言葉を取り消すことはしなかった。身勝手だと思われてもいい。だってこれが私の本心だから。
「なるほどね。まあ、外崎さんには何もないってことはないと思うけど、でもその気持ちはあたしも分かる気がするなぁ。あたしもこのまま卒業していいのかなって、不安になるときもないわけじゃなかったから」
「速水さんでもそうなの?」
「いや、皆そうでしょ。一〇〇パーセント満足のいく高校生活を送ってる人なんて、多分一人もいないよ。別にこの学校に限った話じゃなくね」
そう実感をこめて言っていたから、私は速水さんの胸のうちをわずかにでも垣間見る。速水さんの日々には楽しいことしかないと思っていた自分を、今なら浅はかだったと言い切れる。速水さんは速水さんで、辛さや苦悩を抱えていたのだ。
そのことに気づいて、私たちの距離はまた少し縮まったような気が私にはした。
「よし、じゃあ文化祭出よっか。あたしたちで協力して、最高の瞬間、そして思い出を作ろう」
力強く口にした速水さんに、私も頷いた。
正直、一人ではまだ怖い部分もある。でも、誰かと一緒なら、もしかしたら大丈夫かもしれない。その誰かが速水さんであることに、私は安心感を抱き始めていた。
「じゃあ、実行委員会への申し込みはあたしがやっとくね。でも、それに当たって決めなきゃいけないことが一つあるんだけど……」
「何?」
「あたしたちのユニット名、どうしよっか? ただ速水由海と外崎千早希で出るのじゃ、ちょっと味気ないよね?」
言われてみればと、私は思い至る。出るか出ないか決めることばかりに気を取られて、そこまで頭が回っていなかった。
何でもいいという考えもよぎるが、せっかく出るからにはしっかりと考えたい。
でも、すぐにユニット名が思い浮かぶほど、私の頭の回転は速くはなかった。
「外崎さん、もし決めかねてるようだったら、あたしが考えてあるの言っていい?」
「うん。何?」
「『そとはや』っていうの。外崎と速水の名字をくっつけて『そとはや』。シンプルだけど、悪くないネーミングでしょ?」
お笑いコンビみたいだなと、第一印象では思った。
でも、「そとはや……」と口に出してみると、意外なほど口に馴染んでいることに気がつく。中二的な横文字を並べてスベるよりも、シンプルな方がかえって、洗練されていいかもしれない。
「どう? いいでしょ?」と推してくる速水さんに、私も「うん、いいと思う」と頷いた。どうでもいいと丸投げしたわけじゃなくて、ちゃんと本心から出た返事だった。
「じゃあ、『そとはや』で決定ね! 申し込み用紙にもそう書いとくから。あとはさ、何の曲やるかなんだけど、やっぱり私は、外崎さんのオリジナルの曲をやりたいなって思う。有名なアーティストのコピーとかじゃなくて」
「うん。私もそう考えてる。せっかく出るからには自分の曲を演奏したいなって」
「だよね。じゃあ、どの曲にする? この前、外崎さんがあたしに歌ってくれた曲?」
「いや、それはまだ決めてない。その曲かもしれないし、別の曲かもしれないし、もしかしたら文化祭用の新しい曲を書くかもしれないし。いずれにせよ、速水さんが練習する時間を多く取れるよう、早めに決めるよ」
「うん、ありがと。どの曲でもあたし、がんばって練習して、人前で披露しても恥ずかしくないレベルにするよ。そうじゃないと、外崎さんの隣になんて立てないしね」
「速水さんにそこまで言ってもらえると、私も嬉しいよ。改めてまた今日の放課後からがんばろうね。ガンガン練習してこう」
「うん!」微笑んだ速水さんに、私も同じようにして笑みを返す。
まだ出るのが決まっただけだ。どんなステージになるかは、これからの私たちのがんばりにかかっている。
でも、私は不思議とそこまで大きな不安は抱かなかった。
速水さんが必死に練習してくれることは分かっていたし、私もギターに再び触れるようになって、日に日に感覚を思い出している最中だ。きっとなんとかなるだろう。
そう感じた思いの正体が自信であることに気づいて、私はより頬を緩めた。
放課後になると、速水さんは真っ先に席を立って、教室を後にしていた。文化祭実行委員会がある、生徒会室に向かっていったのだろう。
その証拠に、私が帰り道を歩いていると、スマートフォンが着信音を鳴らして、速水さんからのラインが届いたことを知らせてくる。
〝申し込みしてきたよ〟との文面に、私たちの名前が書かれた申し込み用紙の写真が続けて送られてきて、私に現実を突きつけた。これでもう後に戻ることはできない。
私は息を呑んだ。どうせ出るからには、成功したと胸を張って言えるようなステージにしたい。
そのためにも私は、速水さんにギターを教えるという、今できることを最大限やり遂げなければならなかった。
速水さんの家に帰ると、すぐに着替えて自分のギターを持って、私の家に向かう。
速水さんはちゃんと自主練を積んでいるのか、簡単な単音弾きならもう難なくこなせるようになっていたし、いくつかのコードももう覚えたのか、何も見ないでも押さえられるようになっていた。
その上達ペースに、私は目を瞠る。思い切って今日はFのコードを教えてみた。弦を一弦から六弦まで、人差し指を寝かせて押さえるという、ギター初心者がつまずきやすい最初にして最大の関門だ。
速水さんも案の定、うまくできずに「難しいね」と小さく笑っている。私も「そうでしょ」と微笑んだ。
私も鬼じゃないから、文化祭で披露する曲にこのコードを使うつもりはない。それでも、筋のいい速水さんなら、もう来週にさえでも習得していそうだと、私は思った。
ギターの練習を終えて、一時間ほど勉強を教わった私は、お父さんとお母さんが帰ってくる前に、自分の家を後にした。速水さんの話では、私の両親にはまだ私が来ているとは、言っていないとのことだったからだ。
文化祭の出演を申し込んだからには、近々言うことになるだろうが、それでもやはり面倒事は避けるに限る。
自分の両親に会うことが面倒事となってしまっている現状は歯がゆかったが、全てはこれ以上状況をややこしくしないためだ。
私は後ろ髪を引かれるような思いで、速水さんの家へと戻っていく。短くなり始めた日はとうに落ちて、空には暗闇が滲み始めていた。
速水さんの家に戻った七時頃。遥さんはまだ帰ってきてはいなかった。
今日も帰りが遅くなると、朝に聞かされていたから、私は今さら動揺することはない。今までの例から言って、職場である事務所を出たときは、私にラインで一報してくれるだろう。
だから、私はリビングの電気をつけることもせず、真っ先に速水さんの部屋へと向かった。
幸いまだ耐えられないほど空腹ではなかったし、私には何を差し置いてもしておきたいことがあった。
私は速水さんの部屋に入るなり、ギターを手に取ってベッドに座った。そのままいくつか、思いつくコードを爪弾いてみる。
私は文化祭用に新曲を作りたかった。クラスメイトや生徒たちは私の曲を知らないのだから、どの曲も実質新曲みたいなものだが、それでもステージに立つからには、まだどこにも発表していない曲を披露したい。大それた言い方をすれば、私の作家の部分が、そう考えさせているのかもしれない。
いずれにせよ、私はコードを弾き続けた。曲は別のことをしているときにポンと浮かんでくることもあるが、ギターを弾きながら探っていくのが、私のメインの創作スタイルだった。
一時間ほど、私はギターを弾きながら、曲を探り続ける。
だけれど、これといったものは一向に生まれてこなかった。
私は歌を曲から作ることもあるし、歌詞から作ることもある。今は歌詞が思い浮かんでいないのだから、曲から作るしかない。
なのに私の頭は、まとまりのあるメロディーを一つも生み出すことはなかった。速水さんになってからは、作詞も作曲もしていなかったから、感覚を忘れたり、勘が鈍ってきているのかもしれない。
それでも諦めずにギターを弾いていると、スマートフォンが着信音を鳴らして、遥さんから〝今、事務所出た。もうすぐ帰る〟といった内容のラインが送られてくる。あと十数分で、遥さんは帰ってくるだろう。
私はギターをケースにしまって、リビングへと向かった。テレビをつけて適当な番組を流しながら、袋麵を茹でる。
麵をほぐしながら、私はもどかしさを感じていた。思うように曲を作れない自分が、歯がゆくて仕方がなかった。
(続く)