【第15話】嘘ついてない?
「では、速水さん。ひとまず今日はここまでにしましょうか」
チャイムが鳴り終わってから私が言うと、速水さんも歯切れのいい返事をして頷いた。でも、まだギターを弾きたいと思っているであろうことを、私は後ろ髪を引かれているような表情から感じ取る。
「速水さん、どうだった? 初めてギターを弾いてみた感想は?」
かしこまった口調をやめると、うまく教えなければならないと身構えていた私の心も、解れていくようだった。
速水さんは、晴れやかな目を私に向けている。恐れを知らない幼子みたいに。
「うん、楽しかったよ。初めてダウンストロークで弦を鳴らしたときは、言葉にならないくらい感動した。本当に音が出てる! って。考えてみれば、当たり前のことなのにね」
速水さんは初めてギターを鳴らした瞬間を思い出すかのようにしみじみと語っていて、私としても嬉しい。速水さんに、ギターの魅力に触れさせることができてよかったと感じる。
それでも、速水さんは「でも」と言葉を繋いでいた。少し奥歯に物が詰まったような言い方に、私は訊き返さずにはいられない。
「なんか想像していたよりも、ずっと地味だなって思った。ギタリストの人たちって、もっと色んなテクニックを使って華々しいイメージがあったから。つまんなくはなかったんだけど、でもちょっと単調だなとは、正直感じちゃったかな」
速水さんの感想には、忌憚というものがなかった。
でも、私は目くじらを立てるようなことはしない。私だってギターを始めたての頃は、同じようなことを感じていたからだ。
基礎練習は往々にして、単調でつまらない。もちろん上達のためには欠かせないステップだけれど、速水さんが分かりやすいテクニックに食いつくのは、自然なことに思えた。
でも、速水さんだってテニスをしていたのだから、基礎練習の大切さは身に染みて分かっているはずだ。
私は、少し皮肉っぽく口元を持ち上げる。
「まあ、それは分かるよ。もっとコードとか色々弾きたいよね。もしかして私の教え方が退屈だった? だとしたら、申し訳ないなって思うんだけど」
「全然! 外崎さんの教え方は、丁寧で分かりやすかったよ。超初心者のあたしでも問題なくついていけたし、退屈だなんて、これっぽっちも思ってないよ」
若干覆いかぶさるかのように否定してきた速水さんに、私はどことなくおかしさを感じる。こんな感情になるなんて、入れ替わる前からは想像もしなかったことだ。
「冗談だよ。そんな必死になって否定しなくていいって」
頬を緩める私に、冗談だと分かって速水さんも目元を緩めている。お互いの飾らない表情に、私たちはいくらか心を落ち着けることができていた。
「びっくりしたぁ。外崎さんって冗談言う人だったんだ。もしかしてギター、好きなことになると積極的になるタイプの人?」
「まあ、そういうところはあるかもしれないね」
今表に出ていたのは、自分でも知らない私の一面だった。もしかしたら速水さんになって、速水さんと一緒にいることで、私にも変化が訪れつつあるのかもしれない。
私はそれを嫌なこととは、少しも思わなかった。むしろ誇らしい、望ましいことにさえ感じられた。
「ねぇ、速水さん。よかったらそのギター貸したげるよ」
「えっ、いいの!?」
心から驚いた様子を見せている速水さんにも、私は穏やかな表情を崩さなかった。その方が本当のことを言っていると、分かってもらえると思った。
「うん、いいよ。ていうか、もし出るとしたらの話だけど、文化祭までにはあと一ヶ月とちょっとしかないんだよ。私とだけじゃなくて、一人でも練習しないと、とても間に合わないでしょ」
「確かに、それはその通りだね」
「でしょ? この教則本も貸したげるから、いつでも好きなときに練習しなよ。もちろん周囲や隣の部屋の人に迷惑をかけない範囲でだけど。その代わりさ、このアコギは私が持って帰っていいかな?」
「いや、いいも何もそれ、元々外崎さんのものでしょ。あたしに止める権利なんてないよ」
「ありがと。じゃあ、明日はいくつか簡単なコードを教えるから、それまでに今日やった単音弾き練習しといてね」
「うん、分かった。めっちゃうまくなって、外崎さんをびっくりさせたげるよ」
「たった一日じゃ、そこまで変わんないと思うけどね」というツッコミを、私は胸の奥に押しこんだ。やる気になっている速水さんに、水を差すべきではないだろう。
私たちは軽くクロスで汚れを取ってから、ギターをケースにしまい、ギタースタンドに立てかけた。
速水さんと今一度視線を合わせる。言葉にはしなかったけれど、私たちは前向きなメッセージをお互いに受け取り合った。
「じゃあ、外崎さんのご両親が帰ってくるまで勉強しよっか。外崎さんは、課題のどこを間違えちゃったの?」
「えっとね、いきなり問一からなんだけど……」
私たちは机に教科書や問題集、ノートといった勉強道具を広げる。
私の課題は正解よりも不正解の方が多かったけれど、速水さんは引くことも笑うこともせずに、一つ一つ丁寧に解き方を教えてくれた。私も教えられた通りに課題を解き直してみる。
少しずつ暗くなり始める外をよそに、私たちはずっと前から知り合っていたかのように、隣り合って勉強に取り組んでいた。
次の日もまた次の日も、私たちは私の家に行ってギターを弾いていた。速水さんはやはりというかなんというか飲みこみが早く、三日もしないうちにCやEといった簡単なコードなら弾けるようになっていた。
単音弾きも左手の動きが日を追うごとにスムーズになっていて、私が帰った後も長い時間練習していると察せられる。どうやら本気で、私と一緒にギターを弾いて、文化祭に出るつもりらしい。
そのひたむきな態度に感化されて、私の指導も次第に熱を帯びていく。速水さんとギターを弾いている時間は、私にとっては差し迫った問題や現在進行中の状況を少しでも忘れられるひとときで、それは学校にいる間は得られないものだった。
とはいえ、私たちの前から不安や訳の分からない状況が、完全に消え去ったわけではない。毎朝目覚める度に、私は元に戻ることができていないという現実に、打ちのめされている。
そして、それは今朝も同様だった。
朝起きて、私が速水さんの身体で速水さんの部屋にいることに、私はやりきれなくなってしまう。まだ毎日懲りずに期待をしていたから、今日も気持ちががくっと落ちてしまう。
でも、私が落ちこめるのは、この部屋の中だけだ。私は「よし」と呟いてから、ベッドから起き上がった。
外ではにわか雨が降っているようで、窓にも小さな雨粒がいくつか張りついていた。
遥さんはこの日も朝から仕事で、私と一緒に朝食を食べることもなく、家を出発していた。
「ごめん、何も用意できなかった。なんか適当に食べといて」と言われたので、私は少し迷ってレトルトの親子丼を朝食に選ぶ。湯煎して食べた親子丼は出汁の味が利いていて美味しかったけれど、膨れるお腹とは裏腹に、私の心は完全には満たされることはなかった。
少しずつ慣れてきて、所要時間も短くなったメイクを終えて、私は学校に行く支度をする。ちょうど玄関に向かおうかというところで、インターフォンが鳴った。
ドアを開けると、そこにはやっぱり高木さんが立っていて、私を迎えてくれる。何でもないような挨拶を交わして、私たちは今日も学校へと向かう。
起きたときに降っていたにわか雨は止んでいて、雲の切れ間から、かすかに日の光が差しこんできていた。
「由海さ、今度いつ部活来れそう?」
私の家を出発するやいなや高木さんが訊いてきたのは、そりゃ当然気になるだろうなという疑問だった。
私は昨日も一昨日もテニス部には行っていないし、速水さんもそれで了承してくれている。でも事情をまったく知らない高木さんにとっては気になって仕方がないのだろう。
想定できた疑問だったから、私もあらかじめ考えていた答えをなるべく自然な調子で答える。
「うーん、まだ分かんないかな。ちょっと勉強が忙しくてさ。なるべく早いうちに戻ってきたいとは思ってるんだけど、なかなかどうもね」
「そんなに勉強大変なの? 由海、そんな難しい大学目指してたっけ?」
「うん、最近志望校変えたんだ。あたしの学力なら、もっと上の大学を目指せるって先生に言われたから、まあそれも悪くないかなって」
私が速水さんになって、もう一〇日以上が経っている。速水さんのふりをすることが板についてきたとまでは言わないけれど、それでも最初の頃よりかはいくらか速水さんらしく振る舞えているはずだ。
でも、そう思う私をよそに、高木さんは少し怪訝な目を私に向けていた。私は息が詰まる思いがしたけれど、それでも努めて明るい表情を保つ。
「ねぇ、由海。私にちょっと嘘ついてない?」
高木さんの言葉に、私は喉元にナイフを突きつけられているような感覚を抱いてしまう。返す声も、知らず知らずのうちに動揺してしまいそうだ。
「何言ってんの。あたしが萌衣に嘘つくわけないじゃん」
「本当に? 由海、家帰った後、別のとこ行ってるよね? 綾乃が由海のこと見たって言ってるよ。由海の家とは、学校を挟んで反対側に歩いていくとこを」
「それは、最近行き始めた塾がそっち方面にあるんだ。私はもっと近い塾がよかったんだけど、お母さんに勧められてね」
「ふーん。じゃあギターケースを背負っていたのも、その塾で使うため?」
すぐに返事をしないと怪しまれそうだったけれど、それでも私は言葉に詰まってしまっていた。
確かに私はギターケースを背負って、元の私の家に向かっていたけれど、それを稲垣さんに見られてしまっていたとは。迂闊だったと感じてしまう。
でも、今は悔やんでも仕方ない。黙っていると、認めていることに等しい。
「何それ、人違いじゃない? 別にギターケース背負ってる女子なんて、その辺のどこにでもいるでしょ」
「いや、あれは間違いなく由海だったって、綾乃は言ってたよ。何だったら、思わず写真撮っちゃったとも言ってたから。ねぇ、由海。私はそれをちらつかせて、脅すような真似はしたくない。だから、本当のこと言って。大丈夫だよ。私は怒らないから」
高木さんは穏やかな口調で言っていたけれど、私は人知れず圧力を感じてしまう。「怒らないから」という言葉を鵜呑みにできるほど、私はまだ高木さんと仲良くできているとは言い難かった。
でも、速水さんだったら、その言葉を信じて正直に打ち明けるだろう。
だから、私も完全に否定することはためらわれる。もちろん、一〇〇パーセント真実を言うわけにもいかないけれど。
「う、うん。実はさ、そっちの方向にギター教室があってさ、最近そこに通い始めたんだ。黙っててごめんね」
「いや、謝らなくてもいいんだけど、もしかしてそれが、最近部活に来ていなかった理由だったりするの……?」
「ま、まあ、そのうちの一つではあるね」
ぼかした言い方をした私を、高木さんは表立っては責めなかった。
でも、私にも聞こえそうなほどの深いため息をついていて、私は軽く怯えてしまう。ギターを習っているというのは、どう考えても部活を休むに足る理由ではないだろう。
文句や嫌味を言われても仕方がないと、私は心の中で身構える。
「まあそういうことなら仕方ないよね、とは正直言えないかな。私たちが必死に練習してる間に、由海は別に今やらなくてもいい、ギターを弾いていたんだもんね」
「ご、ごめん……。怒ってるよね……?」
「いや、怒ってないって。言ったでしょ。怒らないからって」
高木さんの言葉からは、私に対する不満が滲み出ていて、怒りをどうにか抑えようとしているようだった。
仕方ないこととはいえ、結果的に私は速水さんとして、今まで一緒にがんばってきたテニス部の仲間を裏切ってしまっている。高木さんが不満を抱くのも無理はない。やはり醜態を晒してでも、私は部活に出るべきだったのだ。
「じゃあさ、由海。明日の部活は出れそう?」
私は曖昧に微笑む。首を横に振ることは気が引けたし、黙って俯くことも、速水さんのキャラに合っていない気がした。
ほのかに苦みを交えた表情をして、高木さんに私の意図が伝わってくれることを望む。
「そっかぁ。難しいかぁ。もしかしてそのギター教室って、毎日レッスンがある感じ?」
「う、うん……」
「そうなんだ。よく知らないけど、由海はそんなにギターにはまってんだね」
「ま、まあね。えっ、でもやっぱり部活に行った方がいいよね……?」
「まあそれはそうだけど、私は強制しないよ。別に部活は絶対に来なきゃいけないもんでもないしね。まあ私としては来てほしいんだけど、由海が嫌なら無理する必要はないと思う。やりたいことやるのが一番だよ」
「ありがとう。でも、ごめんね。気を遣わせちゃって」
「いいよいいよ。でもさ、ちょっと一個お願いしていい?」
「何?」
「由海のギター聴かせてよ。どんな演奏するのか聴いてみたい」
唐突な高木さんの提案に、私はたじろいでしまいそうになる。だけれど、高木さんの表情に、純粋な興味以外の感情は見られなかった。
「いや、あたしまだ下手って言えるレベルにすら達してないよ? ギターも今月に入って始めたばっかだし、まだ簡単な演奏すらできないんだけど?」
「それは分かってる。別に今すぐじゃなくてもいいから。でもさ、いつかは私にもなんか弾いて、聴かせてくれると嬉しいな。部活休んでまで習いに行ってるギターをさ」
やはり高木さんは、まだ完全には私のことを許していなかった。少し皮肉めいた言い方に、私はそれを存分に感じ取ってしまう。退路を塞がれたような感覚さえする。
こう言われてしまったからには、高木さんの前でギターを弾くしか、私に取れる選択肢はない。
「う、うん。分かった。まあいつかね」
「うん。まあいつでもいいんだけど、なるべく早くしてくれると嬉しいかなって。本当、簡単な曲でいいからね」
心はまだついていけていなかったけれど、私は何とか前向きな返事をした。速水さんならどうするか考えての結果だ。
私はさらにギターを練習する時間を増やそうと決意する。どうせやるからには、たとえ速水さんの姿であっても、へたくそな演奏はしたくなかった。
私たちは交差点の角を曲がって、宇都宮さんや稲垣さんと合流する。
高木さんはさっそく私がギターを習っていることを話題にしていて、私はさらに逃げ道を塞がれていっていた。
(続く)