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【第13話】交換条件



 高木さんたちとのお出かけに志水さんとの食事と、とにかく疲れた私は家に帰ると、簡単に寝る支度をして、一一時になる前には布団の中に入っていた。


 今日は一日中動きっぱなしで、速水さんは休日もこんなに忙しくしているのかと、尊敬の念すら覚える。しかも、ここに部活まで加わっているのだから、活動量は私の倍以上だ。


 身体はまだまだ元気でも、頭はそうはいかず、私は布団に入るとすぐ眠りについていた。不安は数えきれないほどあるはずなのに、疲労がその全てを上回っていた。


 朝起きて、私はやっぱり元の状態に戻っていなかった。でも、落胆する度合いは少しずつ弱まっている。今まで元に戻らなかったのだから、きっと今日もそうだろう。そう感じる部分が、日を追うごとに大きくなっていた。


 リビングに向かうと、ダイニングテーブルには既に朝食が用意され、遥さんがテキパキと仕事に行く支度を進めていた。昨日、結構な量の紹興酒を呑んでいるはずなのに、二日酔いしている様子は見られない。


 遥さんは「今日も遅くなるからよろしくね」と、家を出ていった。「うん、いってらっしゃい」と見送って、私はダイニングテーブルに着く。主菜のシュウマイは明らかに冷凍食品を温めたものだったけれど、それでも何の問題もなく美味しかった。


 この日もやっぱり高木さんたちと一緒に登校し、さほど身が入らない授業を受ける。


 週末に出された課題は、どうにか自分の力だけで解けたものの、答え合わせをしてみたら半分以上が間違っていた。幸いクラスメイトの目には入らなかったけれど、これでは速水さんとしての面目が立たないだろう。


 私はもっと勉強をしなければと、強く思う。もしかしたら文化祭の後の中間テストまで、私たちは元に戻らないかもしれないのだ。


 多少点数は落ちたとしても、速水さんとして最低限恥ずかしくない点数を取らなければ、元に戻った時に速水さんの進路にも影響が出る。それだけは避けなければならなかった。


「どうだった? 志水さんとの食事。うまく乗り切れた?」


 今日も屋上へと向かう階段の踊り場で私たち二人だけになると、速水さんは真っ先に訊いてきた。


 昨日、疲れた私は志水さんとの食事の様子を、速水さんにラインで伝えられていなかった。


 昨晩から気になって仕方がなかったのだろう。我先にといった表情にも無理はないと私は感じた。


「う、うん。まあ大きな問題はなかったんじゃないかな。あまり喋れなくて、『調子悪い?』って訊かれたときはあったけど、それも大事にならずに乗り切れたと思う」


 私がそう答えると、速水さんは安心したかのように一つ息を吐いていた。決して浅くはない息に、私は速水さんがどれだけ気を揉んでいたかを知る。


「よかったぁ。あたしとしても、あの人とは険悪にはなりたくなかったから、外崎さんがうまく対応してくれてほっとしてるよ」


「うん。うまくできたかどうかは正直よく分からないけど、それでもつつがなく時間を過ごすことはできたと思う。まあ、それほど積極的には喋れなかったんだけどね」


「いいのいいの。あたしもあの人といるときは、それほど喋ってるわけじゃないから。ねぇ、お母さんとはどうだった? 何か変わったことあった?」


「私の見た限りでは、特に変わったことはなかったと思うよ。ただ楽しそうにご飯食べながら、話してただけのように見えた」


「そっかぁ。なら、よかったよ。あたしとしても二人の雰囲気が悪くなることは、望んでないしね」


 速水さんの言葉は噛みしめるような口調も相まって、私にだけ向けられているものではないように思えた。


 自分を納得させようという言い方に、私は少し複雑な思いを感じてしまう。速水さんは自分の気持ちを押し殺そうとしているのではと、穿った見方さえしそうだ。そう訊かれることを速水さんが望んでいるとは思えなかったから、口には出さなかったけれど。


「ねぇ、ところでさ、外崎さんはあの人のこと、どう思った?」


 わずかに声を潜めた速水さんに、二人だけの話にしておきたいであろうことは、私にはすぐに分かった。きっと大げさな評価も、速水さんは聞きたくないだろう。


 だから、私は同じく声を潜めて思ったままを伝えた。


「確かに、いい人だなとは思ったよ。思っていたように話せない私のことも心配してくれたし。ただ、いい人には違いないんだけど、ちょっとデリカシーには欠けるなって思っちゃった。あと前向きな方に決めつける傾向も強かったかも。それが純粋な善意からだとは、分かってるんだけどね」


「……外崎さん、結構言うじゃん」速水さんの反応に、私は一瞬言わない方がいいことを言ってしまったかと焦る。母親と仲の良い人間を悪く言われて、よく思う人間は少ないだろう。


 だけれど、速水さんの顔はわずかに微笑んでいて、その数少ない例外だったのだと私は思い至る。


「ご、ごめん。そんな悪く言う気はなかったんだけど……」


「いいよ、謝らなくて。あたしにも分かるところはあるから。確かにあの人、ポジティブすぎるよね。自信に満ち溢れてるというか、ポジティブを押しつけてくるの、ちょっとうざったいとこあるもんね。人にはそんな前向きになれないときだって、あるってのにね。特に今みたいな状況は」


「……速水さん、今ここにいない人の悪口で盛り上がるの、ちょっとよくないと思う」


「そっか。言われてみればそうだね。じゃあ、この話はここでやめにしよう。また別の話しよっか」


 私がそれとなく諭すと、速水さんもまずいと感じたのか、明確に志水さんの話題を終わらせた。私も志水さんの話をすることはあまり気が乗らなかったから、ひとまず助かったような気持ちになる。


「別の話しよっか」という速水さんの言葉は大雑把すぎたけれど、私はさほど話題には迷わなかった。私としても、気になっていたことが一つあったからだ。


「ねぇ、速水さん。昨日のカラオケどうだった? 楽しかった?」


 昨日私が帰ったあとに速水さんたちが行ったカラオケは盛り上がったと、私は今朝高木さんたちから聞かされている。六時までの予定が、楽しくて七時まで歌い続けてしまったとも。


 でも、私は速水さんの口から直接、カラオケの感想を聞きたかった。


 速水さんの口元が緩む。その表情だけで、私には速水さんが次に言う言葉が、なんとなく予想できるようだった。


「うん、楽しかったよ。皆でBLACKPINKとかLE SSERAFIMとか歌って盛り上がってさ。あっという間に時間が経ってたなぁ。外崎さんもまた機会があったら誘いたいなと思ったよ」


 速水さんが挙げた名前が、韓国のガールズグループであることを私は知っている。でも、まだ曲は数えられるほどしか聴いたことがない。


 もし私が高木さんたちとカラオケに行く機会があったのなら、ちゃんと歌えるように、予習をしておかなければならないだろう。速水さんの大事な友達付き合いのためにも。


「そう。楽しんでたならよかったよ。ちなみに速水さんは何か歌ったの?」


 速水さんが私の知らない曲を歌っていたら、色々と大変だから、私はつい訊くというよりも尋ねるような口調になってしまう。場合によっては、その曲も私は押さえておかなければならないだろう。


 一人で不安がる私にも、速水さんは相好を崩していない。「心配しないで」と言っているかのようだ。


「大丈夫。安心していいよ。たぶん外崎さんも知っているような曲しか歌ってないから。ミセスとかヒゲダンとかそのあたり。知ってるでしょ?」


 私はおずおずと頷く。確かにその二組は名前を聞いたことはあるものの、曲は数曲ぐらいしか知らない。嫌いではないものの、進んでカラオケで歌いたいかと言われれば、正直違う。


 でも、きっとそれは速水さんなりに、私に歩み寄った結果だろう。だから、私は速水さんを咎めることはしなかった。後でYouTubeで曲をチェックすればいいだけの話だった。


「速水さん、ありがとね。私でも知ってるようなバンドの曲歌ってくれて。助かるよ」


「当然でしょ。今のあたしは外崎さんなわけなんだから。外崎さんに合わせるのは、当たり前のことだよ」


 速水さんの心遣いは、確かにありがたかった。でも、私が返した笑みには、かすかに苦い色が混じってしまう。


 それを言ったら、私が速水さんに合わせるのも当然のことだろう。でも、それに私にとっては途方もないようなエネルギーが必要で、自信を持って「できる」とは言い難かった。


 こんなことを速水さんに言っていいのか、私は迷う。自分から切り出そうと抱いていた決心が、簡単に揺らぐ。


 それでも、この決断は速水さんに無断ではできないという思いが、私の口を開かせた。


「ごめん、速水さん。そう言ってもらったそばからこんなこと言うのは何なんだけど……」


「何? どしたの?」


「……部活、今日も行かないでいいかな……?」


 慎重に尋ねた私に、速水さんはすぐには明確な返事をしなかった。でも、表情からは軽く笑みが引いていて、私はにわかに焦り出す。


 何も言わないのが、かえって「何言ってんの?」と問い詰めてくるようで、平常心ではいられない。


「い、いや、速水さんには本当に悪いなって思ってるよ。部活には行った方がいいのも分かってる。でも、いくら速水さんの身体でも、私は運動神経が悪かったから、自分にテニスができるとは、どうしても思えないんだ。ご、ごめんね。こんなしょうもない理由で。速水さんも嫌だよね……?」


 遥さんと志水さんの期待に応える自信がない。そんな本当の理由は、情けなさすぎて私には言えなかった。


 きっと速水さんは、深く落胆していることだろう。「嫌だよ」とか「部活行って」とか言われたら、私は腹を括るしかない。今は速水さんのイメージに傷をつけないことが、何よりも大切だ。


「外崎さん、どうしてそんな焦ってんの? あたし、嫌だとは一言も言ってないよ?」


 ようやく発せられた返事が意外で、私は思わず驚いてしまう。てっきり速水さんは反対すると思っていた。


「えっ、いいの?」


「うん、いいよ。本当はあたしもテニスはしたいし、外崎さんにはできたら部活に行ってほしいなーとは思うけど、それはあたしが無理強いできることじゃないしね。外崎さんがどうしてもやりたくないって言うんなら、あたしは引きずってまで連れていくような真似はしないよ」


「で、でも練習しないと、テニスの腕は鈍っていっちゃう一方なんじゃ……?」


「それは確かにそうだけど、でもしばらくは大きな大会はないから大丈夫だよ。元に戻った後にがんばって練習し直せば、取り戻せないこともないと思うしね」


「本当に……? 本当に部活に行かなくてもいいの……?」


「外崎さん、ちょっとしつこいよ。いいのいいの。あたしがいいって言ってんだから。何? それとも外崎さんはキツい走りこみとか素振りをしたいわけ?」


 私は固まった。首を横に振るのは、そういった練習を積んできた速水さんに失礼だと思った。


 でも、顔はしかめてしまっていたので、速水さんにも思っていることは、余すところなく伝わったらしい。


 速水さんは再び表情を緩めていた。私も訳もなく頷く。それは私が今日、いや速水さんでいる間は、ずっと部活には行かないことが決まった合図だった。


「でさ、外崎さん。部活に行かないってことはその分、空いた時間ができるってことだよね?」


 そう訊いてきた速水さんの期待する内容が、私には分かる気がした。


 でも、私が次に言おうと思ったことは、それとは違っていたから、申し訳ない思いを抱いてしまう。


「う、うん。だから、その時間速水さんに勉強を教わりたいなって、私は思ってるんだけど……」


 速水さんが唇をわずかに尖らす。速水さんは不満を隠していなかったが、それでも私は二人のためだと、説得を試みる。


「じ、実はさ、こんなこと言うのも情けない話なんだけど、週末出された課題の出来があまりよくなかったんだよね。半分以上間違っててさ。もちろん、自分でも努力はするよ? でも、もしこのままの状態で中間テストを受けたら、速水さんほどにはいい点は取れないと思うんだ。そうなれば、きっと速水さんの進路にも響いてくると思うし。だから、お願い。少しの時間でいいから、私に勉強を教えてくれないかな」


「うーん、まあそういうことならしょうがないかもね。どのみち、いつ元に戻れるかは今の状態じゃわからないわけだし」


「そ、そうでしょ。もちろんタダでとは言わないよ」


「と、言うと?」


「私も速水さんにギターを教えるよ。速水さん、ギターに興味あるんだよね?」


 私がそう言うと、速水さんは明らかに表情を華やがせた。


「外崎さん、もしかしてあたしと一緒に文化祭出る気になったの!?」


「い、いや、ごめん。それはまだ正直決めてない。ステージの応募締め切りは確か今週の金曜日だったと思うから、それまでちゃんと考えて決めたいなって、今は思ってる」


 まだ文化祭に出ると決めたわけじゃない。速水さんの上達具合では、ステージへの応募を見送る可能性も十分ありえる。


 それなのに速水さんは、目を爛々と輝かせている。まるで一緒に文化祭に出るのが、もう決定事項となっているみたいに。


「うん、私はそれで十分だよ! 外崎さんにギターを教えてもらえるなんて嬉しい! 外崎さん、あたしめっちゃがんばるから、絶対一緒に文化祭出ようね!」


「だから、まだ決めたわけじゃないって」と釘を刺すのは、私には憚られた。やる気になっている速水さんの意気を削いではいけないと思った。


「う、うん」と小さく首を縦に振って、とりあえずの返事をする。


 速水さんの表情からは本当の約束にしようという気概がありありと見えて、人にギターを教えたことがない私は、かすかに不安にもなった。


「じゃあ、さっそく今日授業が終わったら、外崎さん家に集合でいい!? 文化祭に向けて残された時間は短いし、一日たりとも無駄にしたくないから!」


 こうなる未来が見えていたから、私は「うん、分かった」と快諾した。どのみち勉強ももう待ったなしの状態なのだから、ちょうどいい。


 私が頷くと、速水さんは「あぁ、楽しみだなぁ」と私の顔で言っていて、私の気は引き締められる。


 速水さんの言う通り、文化祭まではもう時間がない。だからこそ、しっかりと教えなければ。そう思えるくらいには、私は文化祭に出ることに、少しだけれど気持ちが傾きつつあった。



(続く)

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