【第12話】コース料理
「由海ちゃんはどう? 元気にしてる?」
志水さんの訊き方には、馴れ馴れしい色はさほど含まれていなくて、私を一人の人間として尊重している様子が窺える。
でも、いきなりタメ口になった志水さんに、私は内心戸惑ってしまう。別に敬語を使ってほしいわけじゃなかったけれど、それでも少し危うい距離感だと感じてしまった。
「はい。毎日大きな問題もなく、楽しく平和に過ごせています」
当然本当のことは言えるわけがないので、私は開発初期のAIがするような無難な返事をしていた。少し定型句めいている気もしたが、志水さんは「それはよかったね。平和が一番だよ」と特に引っかかることもなく、流している。
一番エネルギーを使う最初のやり取りが無事に済んだことに、まだ志水さんと会ったばかりでも、私は心の中で、ひとまず安堵の息を吐いていた。
遥さんと志水さんは紹興酒を、私はウーロン茶を注文する。
少し話していると、すぐに三人分の飲み物は運ばれてきて、私たちは乾杯をした。とはいってもグラスを突き合わせることはせず、私はそのままウーロン茶を口に運ぶ。
瓶一本だけで六〇〇円もしたウーロン茶は、一口飲んだだけでは、その味の違いを私は分からなかった。
「遥さん、そういえばあの話って、どうなったんですか?」
私たちが乾杯してから間もなくやってきたオードブルに箸をつけながら、志水さんが尋ねる。
志水さんが何を言いたいのか分からない私は、「あの話とは?」と訊き返した遥さんに同意だった。
「ほら、今の事務所が手狭になってきたから、移転を考えているという話を、以前会ったときにしてたじゃないですか。その話ってまだ生きてるんですか?」
「ああ、その話ですね。実はもう移転先の物件は決めてあるんです。だから年内を目途に移転しようかなと、今準備を進めているところです」
遥さんの話は初耳だったから、私は大げさにではないにしても、驚いてしまう。だから、その意味では「えっ、そうなんですね!」と反応した志水さんと、大差なかった。
遥さんは家ではあまり仕事の話をしないけれど、速水さんとはこういう話もしていたんだろうか。
「おめでとうございます。遥さんの事務所、設立されてまだ二年くらいですよね。それでより広いオフィスに移転できるなんて、すごいじゃないですか」
「ありがとうございます。でも、日々目の前の案件に必死に取り組んできた結果だと、私は思っています。もちろん、私一人の力では、ここまで事務所は大きくできなかったはずで。いつもいい仕事をしてくれるメンバーに、改めて感謝しています」
「そうですね。僕も遥さんがまた次のステップに進めて嬉しいです。あの、新しい事務所ってどこになる予定ですか?」
「祐天寺のあたりですね。ここからはちょっと離れてしまうんですけど、それでも駅から徒歩三分の好立地です」
「そうなんですか。あの移転した際には、僕も一度でいいので顔を出していいですか?」
「ええ、いつでもいらしてください。歓迎しますよ」
遥さんと志水さんは、大人のものとは思えないほどの、爽やかな笑顔をしていた。何一つ気兼ねなく、心が通じ合っているかのように。
でも、私は二人の会話にうまく入っていけず、疎外感を覚えてしまう。紹興酒の独特の匂いが鼻をつく中で、私は二人の間で目をキョロキョロと動かし、頷くだけの機械と化してしまっていた。
この日、志水さんはコース料理を予約していたようで、料理は一定の間隔を置いて、次々と運ばれてきた。
本物のフカヒレのスープ、香り高いエビのチリソース、あらかじめ巻かれてある北京ダック。
その全てが見た目からして高級感を漂わせていて、私は恐れ多くなってしまう。もちろん口に運んでみれば美味しいものの、それでもこの一口がいったいいくらに値するのだろうかと考えてしまうと、心からリラックスすることはできなかった。
遥さんや志水さんに味の感想を訊かれても、「美味しい」くらいの言葉しか言えず、二人の気分を害してはいないかと、不安になってしまう。
速水さんはこういうとき、どう振る舞っていたのだろうか。
それは気にしても仕方のないことだったけれど、ただでさえ落ち着くことができない空間で、私は心細い思いを味わっていた。
美味しい料理を目の当たりにしてか、それとも紹興酒が気分を良くさせているのか、遥さんと志水さんの話は弾んでいた。
でも、会話は二人の共通項であるファッションの話だったり、志水さんが日頃している筋トレや、最近友人と行ったキャンプの話題だったりしたから、私はまったくついていけなかった。言い方は悪いけれど、リア充的な話題は、まだ私からは縁遠い。
でも、遥さんは何の障害もないかのように、志水さんに話を合わせている。
関心のない相手にはできない態度に、私は二人の関係性を思い知らされ続けていた。和やかに話している二人の間で、速水さんがどう思っていたかも、何となく想像がつくようだった。
「由海ちゃん、今日そんなに話してないよね? ひょっとして僕といるの、あまり楽しくない?」
コース料理も後半になり、主食である高菜入りチャーハンが運ばれてきた頃になって、志水さんが訊いてくる。
雑談の延長線上みたいに尋ねてきた志水さんに、私は素直に首を縦に振れない。いくらなんでもそれは失礼すぎるだろう。
それに本当にそう思っていたとしても、実際に口に出すのは、少し配慮を欠いているのではないか。
志水さんのことを「あまり得意じゃない」と評していた速水さんの気持ちが、簡単な疑問だけで私は分かるような気がした。
「いえ、そんなことはないですけど……。もしかしてそう見えてました……?」
「いや、そうではないんだけど、今までの由海ちゃんはもっと話してたなって、ふと思っただけ。大丈夫? もしかしてちょっと具合悪かったりする?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと、お腹いっぱいになってきちゃったかなって感じはありますけど」
「そう。ならいいんだけど、何か不安とか心配事があるのかと思っちゃった」
心配してきた志水さんに、私は曖昧に微笑むことで「大丈夫ですよ」とか「深く詮索しないでください」と伝えようとした。この状況で、はっきりと言葉にできる勇気がある人の方が珍しいだろう。
でも、志水さんは私を慮るような目をやめてはいない。それはありがたいことではあったけれど、純粋すぎて有害になりつつある善意でもあった。
「でも、由海。矢田部先生から聞いたけど、最近部活行ってないんでしょ? どうかしたの?」
どうにかこの場を乗り切りたいと思っていたのに、私はあらぬ方向から刺されてしまう。
矢田部先生はテニス部の顧問だ。二人きりでいるときもその話はしていなかったはずなのに、どうしてよりによってこの場面で、遥さんはその話を持ちだしたのだろう。
私は「ちょっと、お母さん」と言うこともできず、何とか顔に浮かべていた笑みも、バツの悪いものに変わってしまう。
速水さんがテニス部に所属していることは、志水さんも把握していたのだろう。「由海ちゃん、本当に大丈夫?」と口にしていて、それは私にとっては余計なお世話でしかなかった。
「は、はい。大丈夫です。ここのところ、ちょっと調子悪い日が続いていて。まあ、あと何日かすればよくなると思うんですけど、ご心配をおかけしてすみません」
「別に由海ちゃんが謝ることじゃないよ。でも、調子が悪いのってどういう感じで?」
「そ、それは申し訳ないんですが、志水さんにはあまり言えないというか……。ごめんなさい。せっかく心配してくださっているのに」
私は言葉通り、最大限申し訳ない表情を装った。
その甲斐あってか、志水さんは「そっか。そういうことならしょうがないね」と、何も言っていないに等しい私にも、理解を示してくれている。
きっと生理痛か何かだと考えたのだろう。違うのにそう思われていることは癪ではあったけれど、今は背に腹は代えられなかった。
「でも、由海。確認だけど、テニスが嫌になったわけじゃないんだよね?」
そう訊いてくる遥さんに、私は「うん」と、首を縦に振ることで応えた。速水さんのことを考えたら、私にはそうする他なかった。
かすかに生じ始めた気まずさを紛らわすために、私は高菜入りチャーハンにレンゲを伸ばす。シンプルかつ絶妙な塩梅の塩味が美味しかったけれど、私の心にかかったモヤは、完全には晴れなかった。
「まあ、でも好きなことができないっていうのは辛いよね。僕も高校のときサッカー部に入っていたんだけど、大きな怪我をしてしまって、半年ぐらいプレーできない時期があったから、今の由海ちゃんの気持ちはよく分かるよ」
志水さんが示した(私にとっては)浅い共感は、心の奥までは届かなかった。そんな簡単に人の気持ちが分かるわけがないだろうという思いが、言葉を跳ね返している。
ここで私が、本当のことを志水さんに言ったらどうなるだろう。私と速水さんは今、人格が入れ替わっている状態なんです。
でも、そんなことを言っても証拠がない以上、信じてもらえる未来は見えない。
私は胸に芽生えた反感を、口まで上ってこないようにせき止めた。
「だから、そんな僕から由海ちゃんにアドバイスがあるとすれば、そんな辛い時期はいつまでも続かないよってことかな。きっといつかは今抱えている問題も解決して、また思いっきりテニスに打ちこめる日が来るはずだから」
分かっている。志水さんは私(志水さんから見れば速水さん)のために言ってくれている。そこに善意以外の感情は含まれていない。
でも、それが分かるからこそ、私は頷きつつも内心で「何を言っているんだろう」と思ってしまう。
志水さんは知る由もないが、私と速水さんが直面している問題は、未だに解決の兆しすら見せていない。
もちろんこんなこと志水さんに思うのはお門違いもいいところだけれど、志水さんのアドバイスは私のためにも、速水さんのためにもなっていないように思われた。
「そうよ、由海。私は由海にはテニスを続けていてほしいな。だって、私は由海がプレーしているのを見るのが好きだから。自分の得意分野で力を発揮している由海のことを、誇らしく思ってるよ」
「僕も、実際に由海ちゃんがプレーしているところを見たことはないけど、でもまたテニスをしてほしいなと思う。好きなことなら続けるべきだと思う。もちろんすぐには難しいかもしれないけれど、僕は由海ちゃんのこと応援してるから」
二人の言葉は、私に対する期待を隠そうともしていなくて、私には荷が重かった。
そりゃ都大会ベスト4ならその先を期待されてもしょうがないけれど、でも私には真綿で首を絞められているような心地がする。
速水さんはこんな二人から、いやもっと多くの人からの期待という名のプレッシャーを受けながら、テニスをしていたのだろうか。
もしかしたら速水さんが過ごしていた日々は、私が想像するほどバラ色ではなかったのかもしれない。
「お母さんも志水さんもありがとうございます。今はちょっと難しいんですけど、また調子が回復したら、部活にも復帰したいと思います」
私が口にしたのは、二人が望んでいるであろう言葉だった。前向きな態度を示しておけば、この先も関係を続けられる。
その証拠に、二人は穏やかな笑顔を私に向けてくれていて、この反応でよかったのだと私は知る。「でも、大丈夫? 辛かったら、ご飯残してもいいからね」と言ってくれた志水さんに、私は「大丈夫です。幸い食欲はあるので」と答えた。
料理を食べながら、私たちの表面的には楽しい会話は再開されていく。
相も変わらず談笑する二人にも、私はいまいち乗り切れない。大丈夫なことは一つもなくて、早く帰ってベッドに入りたい気持ちにさえ、私はなっていた。
(続く)