【第10話】映画鑑賞
翌朝になっても、やはり私たちは元に戻っていなかった。
薄々分かっていたことではあったものの、それでも心のどこかで元に戻ることを期待していた私は、望みが叶わなかったことに三度落胆してしまう。いったい、いつになったら元に戻ることができるのだろう。
私はこの日も焦りと絶望感とともに、一日をスタートさせる。今日は休みらしい遥さんと二人で朝ご飯を食べ、一人でメイクをしていると寄る辺ない思いが募った。
次の朝も、また次の朝も元に戻ることはできなくて、気がつけば私は、速水さんのままで日曜日を迎えていた。言わずもがな、志水さんとの食事がある日だ。その瞬間に向けて、私は緊張せずにはいられない。
でも、私が抱いている緊張はそれだけが理由ではなかった。ファッションデザイナーに土日はないようで、遥さんは今日も、私が起き出す頃に仕事に出かけていた。
トーストを温め、インスタントの即席スープと一緒に食べる。その間も私は、漠然とした不安を感じ続けていた。今日一日を最後まで乗り切れるかどうか、確信はまったくなかった。
今までよりも少し入念にメイクを施して、着たことがない白いワンピースを着て、外に出る。
九月とはいえ、今日も真夏日になるらしい。太陽はじりじりと暑く、私は容赦なく日差しを浴びる。日焼け止めを塗っていなかったらどうなっていたか、若干恐ろしく感じるほどだ。
一〇分ほど歩いて、私は最寄り駅の北口に辿り着く。そこでは高木さん、宇都宮さん、稲垣さんが話しながら待っていた。集合時間の一〇分前には間に合うようにやってきたのに、少し気が早いなと感じる。
私は軽く手を挙げながら、三人に近づいていった。三人も私を見て、軽く手を振ってくれている。速水さんになる前の私だったら、考えられないような状況だ。
「ごめん。ちょっと遅くなっちゃって。待った?」
「いや、遅くなったって、まだ一〇時に全然間に合ってんじゃん。私たちも今来たとこだし、全然待ってないよ」
「由海、今日大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「最近、部活休んでるらしいじゃん。体調とか悪くない?」
「ああ、それなら大丈夫。頭痛いのも、もうよくなったから」
「そう。なら、よかった。じゃあ、また明日から部活出てこれるよね?」
「うーん、それは正直まだ分かんないかな。そろそろ受験勉強とかも始めないといけないし」
「えー、もう? 早くない?」
そんなやり取りをしながら、私たちは時間を潰す。高木さんたちの会話はやっぱりまだ苦労するけれど、それでも速水さんになった当初を思えば、私はほんの少しだけれど慣れてきてもいた。
四人揃ったにもかかわらず、私たちはすぐに出発しなかった。普段の私たちだったら、もう目的地に向かっていただろうけれど、この日は勝手が違う。
その人物は、集合時間の五分ほど前にやってきた。バンドTシャツにジーンズという格好は、私がそれしか持っていなかったからで、選択の余地がなかったことに、申し訳ない思いを抱く。
「ごめん。遅くなって。待ったよね?」
速水さんは、私たちを見つけるなり軽く駆け寄ってきた。私の見た目で、想像していたよりもざっくばらんに話しかけられて、ほんの少しだけれど、高木さんたち三人が戸惑っているのが分かる。
数日前、高木さんから部活のない日曜に一緒に出かけられないか誘いを受けた私は、その日のうちに速水さんに連絡していた。
「どうしよう?」と訊くと、「心配だから私もついていっていい?」と返されて、高木さんたちにも私の見た目をした速水さん(もちろんこんな正直には言っていないけれど)を、メンバーに加えることに同意してもらっている。
そして今に至っているのだが、私の姿をした速水さんは、まだ私たち四人には馴染めていなかった。「ううん、私たちも今来たところだから」と言う高木さんも、心なしか速水さんとの距離を測りかねているように見える。
速水さんももっと積極的に話したいだろうに、私のことを思ってか、あまり口数を増やしてはいない。見た目が違うとここまで対応の仕方も変わってしまうのかと、私は少しバツが悪く感じていた。
私が勇気を出して「じゃあ、行こっか」と呼びかけ、私たちは駅の改札をくぐる。
今日は一一時からみんなで一本映画を観る予定だけれど、私たちの最寄り駅の近くには映画館はなくて、一番近い映画館へは電車を三駅ほど乗って行かなければならなかった。
ホームに上がると、ちょうどやってきた電車に私たちは乗りこむ。車内は満席で、私たちは降車駅まで立っていなければならなかった。
電車に乗っている間も、私たちは当然話し続ける。話題はこれから観る映画のことが中心だったから、公式サイトや予告編を見て情報を入れていた私でも、なんとかついていくことができていた。
映画館は、駅の北口からまっすぐ伸びる大通りを進んだ先にあったから、初めて降りた駅でも、私は迷うことなく辿り着けていた。
映画館に入って、私たちは一直線に券売機に向かう。既にチケットは私の名前で(とはいっても名義は速水さんだけれど)五人分予約していた。五人が横並びになる席は当日だと他の人に座られて、押さえられない可能性があったからだ。
チケットを四人に配る代わりに、私は四人から立て替えた鑑賞料金を受け取る。千円札と五〇〇円玉に、私の財布は少しだけ膨らんでいた。
私は私の姿だった時は、映画館にはほとんど、それこそ親とでしか行っていなかった。一人で来た可哀想な奴だと、周囲の人に思われるのが怖かったからだ。
だけれど、今は速水さんや高木さんたちがいるから、私はびくびくすることなくポップコーンとドリンクを買って、スクリーンの中に入れる。
スクリーンは半分近くの座席が埋まっていた。見る限り私たちと同年代の学生も多い。
ホラー映画とはいえ、有名な男性アイドルグループのメンバーが主演であることの宣伝効果は、やはり大きいようだった。
私たちは、私を真ん中にして座席に座る。少し話していると場内は暗くなり、スクリーンでは近日公開の映画の予告編が始まった。
興味がないわけではないが、たぶん映画館で観ることはないんだろうなという思いで、私は軽く七本はあった予告編を全て見終える。その間にも人は入ってきて、座席は着々と埋まっていく。
何となく人が寄り付かないイメージがあったホラー映画を観る人がここまでいることが、私には意外だった。
すごく長かったような気がする予告編の時間を経て、映画の本編が始まる。
映画は死んだ生物を蘇らせる、復活の呪文を巡るストーリーだった。
幸せそうな一家。だがある日交通事故が起こり、母親は死亡。子供も意識不明の重体となってしまう。何とか一命を取り留めた子供は、母親の身体の一部を地面に埋め、復活の呪文を唱える。
すると、一見無関係に見える女性の動画ディレクター(私でも名前を知っている女優さんだ)に、怪奇現象が次々と起こる。
その音で驚かせるような演出に、私はまんまとはめられ、怪奇現象が起こるたびにびくっと身体を震わせてしまう。話を聞くに、速水さんはホラー映画に多少なりとも耐性があるようだが、私にはまったくと言っていいほどない。でも、突然物音がしたら、誰だって驚くだろう。
私は横目で、私の隣に座る速水さんを垣間見る。速水さんは驚いていたものの、口元はどこか緩んでいて、目の前の映画を楽しんでいるようだった。
映画は胡散臭い霊媒師も登場して、少しずつ混沌めいていく。
強気な姿を見せたと思いきや、情けなく泣き言を言う霊媒師に、客席からはいくつか小さな笑い声が聞こえたが、私はその前の怖いシーンの印象を引きずってしまっていて、あまり笑うことはできなかった。すぐ後に霊媒師が助手とともに、わりと惨たらしく死んでしまってからなおさらだ。
ホラー映画が好きな人は、こういう描写を楽しんでいるのだろうか。だとしたら趣味が良いなと、私は皮肉っぽいことを映画を観ながら考えていた。
復活の呪文によって蘇る死んだ母親。逃げ惑う主人公たち。その攻防戦は、母親のグロテスクな造形も相まって怖さと緊張感があり、私は目を瞑りたいと思いながらも、スクリーンを見ずにはいられない。館内に冷房は効いているというのに、手に汗さえ握ってきそうだ。
一件落着と思いきや一捻りある展開に、私は目だけでなく心も釘付けになっていた。
きっとここは映画でもクライマックスのシーンだろう。スクリーンの中で起こっている出来事は、確かに怖かったけれど、それでも面白かった。客席全体が映画に集中しているのが分かる。
私は速水さんたちを窺うことはなかった。今はこの映画の結末を瞬きさえしないで、見届けたかった。
映画はハッピーエンドかと思いきや、かなりの不穏さを残して終わった。まだまだ恐怖は続いてしまいそうな終わり方に、私はひとりでに震えあがってしまう。エンドロールの背景に映る映像も不気味で、私の緊張は映画が終わるまで解けない。
だから、エンドロールも終わって、スクリーンが明るくなっても、私は半ば放心状態で、すぐに座席から立つことはできなかった。映画館で、親がいない状態でホラー映画を観たのは初めてだから、後味の悪さという名の映画の余韻に、縛りつけられていた。
高木さんたちも、お互いの無事を確かめるかのように軽くざわついている。
でも、私の隣で速水さんは飄々とした表情をしていた。今観た映画がまるで怖くなかったかのように、微笑んでさえいる。
速水さんはホラー映画が大丈夫なタイプなのだ。だったら、私も今は速水さんである以上、いつまでも怯えてはいられない。
私は努めて笑顔を作った。でも、鏡を見るまでもなく、虚勢を張った笑顔だと、自分でもはっきりと分かった。
「今観た映画、すごい面白くなかった!?」
注文を済ませて、高木さんが話の口火を切る。「私も!」「分かる!」と頷く宇都宮さんや稲垣さんの側で、私と速水さんは曖昧に微笑んでいた。昼時のピークから少しずらして来たはずなのに、店内はまだまだ騒がしい。
私たちは映画を観終えた後、通りを戻って駅前のファミリーレストランに来ていた。店内は満席で、五人分の席が空くのには二〇分ほど待たなければならなかったけれど、それでもテーブルに座ると、高木さんたちは映画の感想に花を咲かせている。
口々に「面白かった」と言っていて、あのホラー映画を観る選択をした私たちは、何も間違っていないようだった。
「ねぇ、母親役の人めっちゃ怖くなかった?」
「分かる。蘇った後は特殊メイクもあったから当然として、死ぬ前の素の状態のときも、何か不気味なオーラ出てたもん」
「それな。私もあの人、バラエティ番組によく出てる印象しかなかったから、あんな怖い演技できるんだって、びっくりしちゃった」
「展開も意外だったよね。母親が怪奇現象の原因と見せかけて実は……っていう」盛り上がっている三人に、私は思い切って口を挟んでみる。
高木さんが「分かる」と好意的な反応をしてくれたから、私の言葉は今の話題に即していたらしい。
「本当の原因は子供にあったってやつでしょ? 終わってみたらちゃんと伏線張られてたんだけど、観てる間は気づかなかったよね」
「そうそう。てっきり母親が全ての元凶だって思ってたから、いい意味で騙されたよね」
「でも、あの子供も何も悪くないよね。始まりはまたお母さんに会いたいっていう純粋な思いだし、蘇らせられるようになったのだって、遺伝なわけでしょ。だから、ちょっと気の毒なところはあったよね」
「それな。最後も結構救いのない終わり方だったし。まあホラー映画らしいっちゃホラー映画らしいけど、さすがにちょっと可哀想だなって思っちゃった」
「外崎さんはどう思った?」少し話が進んだ段階で、稲垣さんがふと思い出したように尋ねる。
速水さんはファミリーレストランに入ってからここまで、私の印象を守るかのように微笑むだけで、積極的に話に混ざってきてはいない。
だから気を遣うように稲垣さんが話を回したことは、何ら不自然ではなかった。
「私はホラー的な部分よりも、途中から出てきた霊媒師の人が印象に残ってるかな。あの胡散臭い感じとか、すごく面白くなかった?」
軽く話の角度を変えた速水さんにも、宇都宮さんが「めっちゃ分かる!」と食いついたことで、テーブルには同意する空気が生まれる。
「女性ディレクターについている悪霊の強さが分かったときに、『私には無理だ』って言ってたよね! 無理なんかいって、思わず笑っちゃった!」
「私も印を結ぶときの、やたらキレキレな動きは印象に残ってる。あのシーン、謎の勢いがあったよね」
「あの霊媒師の人、確か本職はお笑い芸人でしょ? そこで培ったコント的な雰囲気が、いい方向に作用してたよね」
「そ、そうだね。あたしもあの霊媒師は面白かった。だからこそ、もう退場するの? って思った」
「確かに。やられ方結構あっけなかったよね。面白いキャラだったから、もっと見ていたかったよね」
「それなー」
テーブルには、和やかな笑いが生まれる。映画館でホラー映画を観ていた緊張が、今になって一気に緩和されたかのように。
そこに不安要素は少しも含まれていなくて、私もこんな状態じゃなかったら、楽しく感じられていたのかなと思う。
速水さんは休日になるたびに、こんないい思いを味わっていたんだろうか。
やっぱり同じ学校に通っていても、私には分からない世界を生きていたんだと、私は思わずにはいられなかった。
(続く)