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【第1話】誰かになりたい



 文字の海を私は泳ぐ。息をするのも忘れて、深く深く潜っていくように。面白みを感じない雑事から距離を取っていく。


 でも、本の世界に逃げこもうとする私を周囲は許してはくれなかった。


 昼休みの教室は、学生たちの声で目眩がするほど騒がしい。浮かれた声に思わず耳を塞ぎたくなる。イヤフォンをして、お気に入りのバンドの新譜を聴いてもよかったけれど、私は音楽を聴きながら本を読むことができない。


 それにイヤフォンをしてしまったら、それこそ私が人を寄せ付けない態度を取っているみたいだ。周囲にそう思われることは、できれば避けたい。


 そんなことをしなくても、私に話しかけてくる人間なんて誰一人いないというのに。


「ねぇねぇ、萌衣(めい)。あの男子とはどうなったの?」


「あの男子って?」


「とぼけないでよー。ほら、男バスの椎木(しいき)くんだっけ? 前、気になるって言ってたじゃん」


「別に気になるなんて言ってないよ。ただ、ちょっと目が合った瞬間に恥ずかしくなるってだけで」


「それが気になるってことじゃん! 意識しちゃってんじゃん! で、どうすんの?」


「どうすんのって?」


「いや、このままでいいの? このままずっと意識してるってだけで、萌衣は満足なの?」


「まあ、それは最近よく考えるかな。でも、ずっとこのままでいいわけがないなとは思うよ。ほら、私たちってもう二年じゃん。そろそろ受験も近づいてきてるし、早いとこすっきりさせなきゃなって」


「と、言いますと?」


「来るべきタイミングが来たら、椎木くんと話すつもり」


「来るべきタイミングって?」


「それはほら、来月の文化祭の後とか?」


「うわー! ベター! 絵に描いたような高校生の恋愛じゃん!」


「別にいいでしょー。私たちには、私たちのタイミングがあるって話なんだから」


 女子たちが盛り上がる。私の席の隣で。その中心にいるのは、速水由海(はやみゆみ)さんだ。


 勉強は学年一位。部活でやっているテニスでは都大会ベスト4。可愛いというよりも綺麗という言葉が似合う顔をしていて、背もすらっと伸びている。コミュニケーション能力も高く、善性と呼べる性格を持つ、誰からも好かれる要素を備えた、クラスの中心的存在である。私にないものばかり持っていて、共通項は同じ高校二年の女子ということしかない。キラキラ輝いていて、教室の隅で一人本を読んでいる私とは、対極にいる存在だ。


 でも、好かれる要素を揃えているからといって、実際に誰からも好かれているわけではない。


 もちろん好ましく思う人の方が多いだろうけれど、それでも私は速水さんを疎ましく思っている。たまたま何もかも恵まれて生まれてきただけだろと思ってしまう。


 だけれど、このクラスでは、私よりも速水さんの方がずっと価値がある存在なのは確かだ。私がいなくなっても、このクラスは何一つ変わらない。


 だから、私は速水さんのことが羨ましいとも思う。こんな休み時間に一人ぼっちで本を読んでいる人間よりも、クラスメイトとワイワイ話せている人間の方が、価値がある人生を送っていると感じてしまう。


 それがたとえ、隣の席にいる私の存在をまるっきり無視して話し続けていたとしても、私は速水さんに憧れてしまうのだ。話しかけられてもまともに答えられない自分が、蟻よりもちっぽけな存在に思えるほどに。


「でもさー、由海って全然彼氏作らないよね」


「そうかな。あたしだって気になる人がいたら、話しかけるぐらいするけどな」


「由海に話しかけられたら、どんな男子でもホイホイついていっちゃいそうだよね」


「何その言い方ー。まるであたしが詐欺師かなんかみたいじゃんー」


「いいや、由海は自分のスペックに対する自覚が薄いんだよ。由海と付き合って嬉しくない人なんていないよ。何? 由海ってもともとそういうのあまり興味ない人?」


「そんなことはないけどなー。まあこればっかりは、時とタイミングの問題だからね」


「由海って意外とドライなとこあるよね。もしくは理想が高いか。まあその辺の男子じゃ、由海には釣り合わないけど」


「いやいや、あたしそんな大した人間じゃないよ」


「どうだかー」女子たちは朗らかに笑っている。会話自体が楽しくて仕方がないみたいに。


 正直、私には理解しがたい感覚だ。謙遜している速水さんの態度も鼻持ちならなくて、全てが私の集中を削いでくる。


 それでも、私は本に向かい続けた。文字を追う以外、私にすることはなかった。


 小説は佳境に入り、思いもよらなかった新事実が明かされる。


 でも、続きが気になるタイミングでチャイムが鳴って、先生が入ってくる。


 私は本をしまい、代わりに教科書とノートを取り出す。ふと隣を見ると、速水さんはいつものようなすました顔で、凛と前を向いていた。





 ノートから顔を上げる。代わりに視界に入るのは、本棚に詰め込まれた小説やCD。壁には好きなバンドのポスターが貼られ、ベッドの上には癒やし系のキャラクターのぬいぐるみが置かれていて、その全てを天井照明がささやかに照らす。


 つまりは私の部屋だ。昨日までと何一つ変わっていない空間で、私は小さく息を吐く。


 今日も学校で誰とも話さなかった。ただ登校して、自分の席に座って授業を受けて、休み時間を何とかやり過ごし、放課後になったら真っ先に下校しただけ。ただの歩く置物か、誰にも見られていない透明人間みたいだ。


 このままではいけないのは分かっている。誰か一人でもいいから友達を作らなければ、私の高校生活は何一つ実を結ばずに終わってしまうだろう。


 だけれど、今は高二の九月だ。もう人間関係はとっくにできあがっていて、そこに私が入りこむ余地はないように思える。


 もちろん、他のクラスメイトだって鬼ではないのだから、私が話しかければ応えてはくれるだろう。全ては私の意気地のなさをごまかす言い訳にすぎない。話しかけたはいいものの、会話が弾む未来は見えないし、何だこいつと思われて終わり。


 それが目に見えているからこそ、私は今日も一人でいるしかなかった。ただ卒業に向けて、じっとやり過ごすしかなかった。


 私は立ち上がって振り返る。目に入ったアコースティックギターは、お父さんが私の一三歳の誕生日に買ってくれたものだ。


 落ち着いた橙色をしたそれを手に取って、再び机に向かってクッションの上に座る。あぐらをかいても、今の私は灰色のスウェットを着ているし、誰も見ていないから別にいい。


 私は再びノートに目を向ける。私が考えた歌詞が書かれたノートだ。それを見ながら、いくつかコードを爪弾いてみる。メロディーが思い浮かびはしないかと、色々と試してみる。


 ギターは私にとって数少ない、できると言えることだ。もともと私の家にはお父さんが昔弾いていたアコースティックギターがあって、私は小学校に入る前から、それを時折弾いていた。ギターは弾けば弾くほど、コードやテクニックを覚えれば覚えるほど楽しく、小学生のときの私は家にいるほとんどの時間を、ギターを弾くことに費やしていた。


 お父さんやお母さんが好きなバンドもいくつか教えてもらった。それは小学生が聴くにはやや大人すぎたが、それでも私は夢中になって、CDやYouTubeのミュージックビデオを聴いていた。


 音楽は私の世界を彩ってくれるもので、何もない私にも「生きてていいよ」と言ってくれるものだった。


 音楽を聴いて、コピーして弾いて。だから、私が自分で曲を作るようになったのは、自然の成り行きだった。


 作曲術の本を読んで、自分で歌詞も書いて、初めて自分の曲を作ったとき、私は一二歳だった。ちょうど中学校に上がり始めた頃だ。


 初めての私の曲は、歌詞も構成も拙いものだっただろう。でも、そんな私の曲をお父さんやお母さんは目いっぱい褒めてくれた。天才だとさえ言ってくれた。その嬉しさが私の中では今も続いて、こうしてギターを持たせている。


 別に将来は音楽で食べていきたいわけじゃない。それでも、私はこうしてギターを弾いている時間が、一番自分らしくいられる時間だなと思うのだ。


 だけれど、分かっている。私は天才なんかじゃない。


 その証拠にいくらギターを弾いてみても、メロディーは少しも浮かんではいない。きっと今日はダメな日なのだ。いくらギターに触れていたところで何も起こらない。そういう日なのだ。


 そして、私には何かを思いつく日より、何も思いつかないダメな日の方がずっと多い。私に才能はないのだろう。


 私はYouTubeチャンネルを持っていて、これまでもオリジナル曲を三〇曲ぐらい投稿しているけれど、登録者数は三人、視聴回数も合計してようやく三〇〇回ほどだ。


 私だって、自分がギターも歌もあまり上手じゃないのは分かっている。世の中には毎日、いや毎分毎秒たくさんの曲が生まれていて、それは私の下手な曲よりもずっと聴く価値がある。当然のことだ。


 望まなくても、私の曲はお金にならない。つまり何の価値もない。


 ギターを弾いたり曲を作ること自体が楽しくなければ、私の心はとっくに折れているだろう。いや、もしかしたらもう原形をとどめないくらいにまで、折れ曲がっているのかもしれない。


 私は立ち上がって、ギタースタンドにギターを置いた。既に日付は変わってしまっている。これ以上粘っても意味はないだろう。


 そのままベッドに横になる。枕元に置いたぬいぐるみに話しかけるようなことはしない。ただ側に置いておくだけだ。


 電気を消して目を瞑る。きっと明日も、今日と同じような一日が待ち構えているのだろう。誰とも喋らず、いるかいないか分からないような存在として時間を過ごす。


 もちろん私だってそれでいいと思っているわけではない。でも、学校ではそれくらいしかできることがないとも思ってしまう。急に変貌を遂げても、周囲に引かれるだけだ。


 つまりは、机にじっと座っていることが私に与えられた役割。働き蟻の中のサボる蟻みたいに、共同体を回すには欠かせない役割。


 でも、それは本来私が望んでいることじゃない。私だってこんな自分は嫌だ。私は私じゃない誰かになりたい。もっと明るく話せて、友達もちゃんといるような人間になりたい。それができないなら、せめて高校生活を一からやり直したい。


 でも、いくら望んでもここは現実だ。そんなこと起こりっこない。私は明日からも私を生きていくしかない。どれほど嫌でも、私は私から逃げることはできないのだ。


 私は目を瞑り続ける。次第に眠気が押し寄せてきて、自分でも気づかないうちに私は眠りに落ちた。


 明日は火曜日で、今週はまだ始まったばかりだった。





 最初に目が覚めたと気づいたときには、何も感じなかった。いつもと変わらない朝を迎えたのだと。


 でも、まだ寝ぼけた状態で目を開けたとき、私ははっきりと異変を感じてしまう。そこには、初めて見る天井があった。


 私の部屋の天井は、壁と同じ白い壁紙が貼られているというのに、その天井は木目が強調されていて、ナチュラルな印象を与えてくる。その違和感だけで、私の頭が覚めるのには十分だった。


 よく見なくても布団も枕も違うし、枕元に置いてあったぬいぐるみもなくなっている。いったいどういうことだろう。


 私は身体を起こしてみる。すると、信じられないような光景が目に入ってきた。


 小説やCD、ギターにポスターなどといった私の部屋にあったものが、あらかた姿を消していたのだ。いや、別のものに置き換わっていると言った方が正しいか。


 そもそもの形状が違う本棚は漫画で占められ、勉強机の上には教科書や参考書が整然と置かれている。壁には赤いタペストリーがかけられ、化粧品だろうか私の知らない小物もいくつか並んでいる。


 決定的なことに、窓の位置まで違っている。私の部屋は南窓で、この時間はあまり強く日が差しこんでこないはずなのに、今は朝日が目を細めてしまうほどに眩しい。


 つまり導き出される答えは一つ。ここは私の部屋じゃない。


 いや、それが分かったとして何になる? ドッキリか何かか? でも、ただのどこにでもいる高二女子の私にドッキリをかける理由があるとは思えない。


 肌に触れる感覚で、着ている服が違うことにも気づく。昨日私はバンドTシャツにスウェットという形で眠りについたはずなのに、今の私は上下、まるで子供が着るみたいなキャラクターもののパジャマを着ている。


 誰かが私をここに運んだだけじゃなく、着替えさせた?


 そうだとしたら、私は悪寒を感じずにはいられない。何だそれ。気持ち悪すぎる。どこの誰が、何の目的で。私の頭は混乱し、とても落ち着かない。


 もう一度布団に入ることもできなくて、私はベッドから立ち上がっていた。危険を感じる余裕もなく、私は狼狽えてあちこちに目を向けてしまう。見れば見るほど、私の部屋とは似ても似つかない。


 そして、私の視線は本棚の上にある鏡に向いた。それを見て、私は言葉にならない驚きを覚えてしまう。


 鏡に映っていたのは、私の顔じゃなかった。


 紛れもない速水由海、その人の顔だった。



(続く)

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