何もない世界-Side:M-
「……」
どこまでも広がる空間に俺は一人立っていた。
視界を遮るものはなく、遠く彼方まで一直線に見回すことができたが俺の目に見えるその果てに何かがあるわけではなくただただ空間が続いているだけ。
それは視線を上に向けたところで同じことであり、上空には青い空などなくかといって頂点といえそうな天井があるわけでもなく何もないということがそこにはあった。
太陽などの光源もそこにはないようだったが不思議と辺りは明るく視界は明瞭であることだけは幸いと言えたかもしれない。
ないものといえば物体だけでなく色彩というものも辺りにはない。
まっさら、という言葉を当てはめるべきだろうか真っ白に塗りつぶされたかのように目に映る世界には単色で染まっていた。
ただそんな世界ではあるものの自分が二つの足で立っている感触だけはあり、それが地面と呼べるものかはわからないがそのお陰で方向を認識することだけはできたのだった。
「……ここは」
何もないということは十分わかってはいるがそれでもきょろきょろと辺りを見回しながら小さく呟くとその声は想像よりも大きく響いたように感じた。
「俺は……」
ぼんやりと立ち尽くしたままとりあえず口と頭を動かしてみる。
気が付けばここに立っていたが果たして何故こんなところにいたのだろう、と考えを巡らせる。
自分がメルク・ウインドであるということはわかり、意識に混乱はないようだ。
身体にも痛みや異常はなく、先ほどまで上がっていた呼吸も今は落ち着いていて――
「そうだ」
そこまで思考が至ったところではっ、と自分の手に視線を落とす。
そこにはこの世界と同じように何もない空っぽの掌があるだけであるが、つい数瞬前まで掴んでいた熱やその感覚だけは今もはっきりと残っていた。
「そうだ、俺は……」
一体どうして忘れてしまっていたというのか。
そう、俺はこんなところにはいなかったのだ。
つい今の今までここではない別の場所――あの地下の空間で一人の男と向き合い、戦い、そしてこの手でその男を掴んでいたというのに何故それを忘れていたのだろう。
立ち会ったその男にこの手は確かに触れ、力を発動した――はずだったのだが。
「また……あいつの記憶なのか?」
そこから先の記憶がまるでない。
だが先ほどまでの出来事のその最後の光景に思い至ったためか、まるで窯の蓋を開けた途端に料理の香りが立ち込めていくかのように記憶――という程古いものではないのかもしれないが――が瞬間的に巻き戻されるように頭の中に浮かんできた。
「いや……けど」
振るわれる光の剣を受け止め奪った際や背後から腹部を貫かれたかのように思えたときに俺の頭に見たこともない景色が流れ込んできた。
それはどうやらあの男の過去であり、となればこの世界もその一部なのかとも思ったがその考えには僅かに疑問が残った。
無論深く説明ができるわけではないが何となく先ほどまで見せられていた光景と今目の間にある景色は違うもののように感じたのだ。
流れ込んできた過去は間違いなくあの男がかつて見た光景であり、それは決して明るく楽しいものではなかったが確かにそこには人の息遣いといえるものがあった。
一方で今俺が見ている世界は周囲こそ明るく照らされてはいるものの生き物の気配どころか風一つとして感じることができず、ここが現実にあった場所とはとても思うことはできなかった。
では一体ここは何なのか、と聞かれたところで答えようなどないのだがここはこれまでとは違う何かであるとだけはひしひしと感じていた。
「何なんだここは」
記憶ははっきりと戻ったものの結局状況はよくわからないままだったが立ち尽くしていても仕方がないので一歩足を前に踏み出した。
冷静に考えてみれば今はこうして立っているものの踏み出した先にも同じように足場があるとは限らないというのに我ながら何とも無警戒な行為だった、などということに遅れて思い至ったころには既に足は前方の空間を踏んでおり、胸を撫でおろすことができた。
「ふぅ」
――何者か
などと、一人慌てて安堵していた俺の頭上から声が落ちてきた。
「っ!」
突如として空気を震わせた声に反射的に顔を上に向ける――がやはり上空には何もなくただどこまで続いているのか距離感もよくわからなくなる程に果てしなく空間があるだけだった。
――何者か
だがそんな俺の困惑など意に介すこともなく姿なき声が問いを投げかけてくる。
「だ、誰だ!?」
男のものとも女のものとも、若いようでもあり年老いたようにも聞こえる不可思議なその声に警戒を以って周囲を見回すがやはり人影一つない。
ここは真っ白で何もない空間であり、隠れる場所も見落とす場所もないというのに声の主を捉えることができず思わず叫ぶように声を上げてしまう。
――我が名は『ロキの光』。汝、何故ここに在る
「なっ!?」
投げかけた問いに答えなど期待はしていなかったのだが意外といえる程にあっさりと声は姿も見せないままに自ら名乗りを上げた。
ただ、告げられたその名はとても想像していたようなものではなく、それは俺から言葉を失わせるには十分すぎる程の衝撃を持っており、ただ何もない虚空を見つめることしかできないのだった。




