父と子
初めて剣を握ったのは5つの時だっただろう。
教育の一環として武芸を身に着けるため、小さな木剣を手渡されたことを覚えている。
幼い自分にはまだ重いとすら感じられたその重量とそれを渡してきた人の優し気な表情を覚えている。
ただ、その時どんな言葉をかけられたのかは今はもう忘れてしまった。
その日から日々の過ごし方の中に鍛錬の時間が設けられた。
厳しく辛いものではあったが、一人机に向かい師の語る言葉に耳を傾けるよりもその時間の方が好きだった。
私がその時間に向き合い剣を振るうたびに周囲の人々の目がうっすらと曇っていくことには幼いながらに気がついてはいたが、それでもそうしていることが好きだった。
「いつか、私も貴方のようになれるでしょうか」
幼い私が少し背伸びをしたような口調でそう問いかけた時、それを聞いたその人は穏やかに微笑みながら頭を撫でてくれた。
それが私の目指すべき人だった。
物心がついた頃には既に優れた人物であると認識できる程にその存在は私の瞳に大きく映っていた。
その言葉は迷うことはなくその考えは誤ることはなく、常に人々を正しい方向へと導いており、それは間違いなく一国の王に相応しい人物だった。
それこそが私の父だった。
母は既に亡く、その顔もはっきりとは覚えていない。
そのため、父こそが私という存在を構築していった要素であったということは決して間違いではない。
己以外の多くの命をその背に背負う巨大すぎる存在の子供として生まれたことに重圧を感じなかったわけではない。
ただ幼い私にとってそれを目指すことこそが自分の成すべきことだという思いがあり、そしてそうしたいと願うほどにその姿は輝いて見えていた。
自分が歩みたいと感じる道を見つけたのは10の頃だっただろう。
初めて手渡された日から絶えることなく剣を振り続けた掌が硬くなり、既に何本もの剣が使い古され代えられた頃、心にふと浮かんだものはこれまでとは違った景色だった。
今自分がいるこの平穏で調和の保たれた世界から多くの人々に語り掛けることよりも、ただ己の持つ力のみで硬い土の上に立ち、風の中を歩んでみたいと思ったことに何か大きなきっかけがあったわけではない。
故にそう感じたことを父へと伝えた。
重たい扉を開け、いつものように執務にあたるその背中に何と言葉をかけたのだったか。
旅に出たいと言ったのだったか。
ただ、私の言葉にかつてより白くなった髪を揺らしながらゆっくりと振り返ったその顔はよく覚えている。
「やめろ」
そして低く、しかしはっきりと聞こえる言葉で短く言われたその言葉を覚えている。
私が長じたからだろうか、かつてよりは優し気な表情も少なくなり時に厳しい目で見られることも多くなってはいたがそれでもその時のその声は初めて聞くものであり、最初は何を言われているのか理解することができないでいた。
「そのようなことを目指すのはやめろ」
何も返せず、立ち尽くしているだけの私にもう一度そう言った父の言葉は今度は一転して駄々をこねる子供をなだめる様な優し気な口調であった。
「なぜ」
そこに自分の知っている父の顔を見たような気がしてようやくそれだけ口を動かすことができた。
重く冷たいその声もさることながら、自分の思いを否定するようなその言葉がその時の私には信じられずにそう問い返してしまった。
「お前は私の子供だからだ。お前が私の後を継がなければどうするというのだ」
椅子に座ったまま、真っすぐに見つめてくる父から目を逸らすことはできなかった。
やや細くなり皺も増えた顔ではあったがその金の虹彩の瞳は部屋に差し込む日の光よりも尚明るく輝いて目を奪った。
「ですが」
父の言わんとしていることは私にも理解でき、そしてそれを正しいことと感じていたためその言葉に反論をすることはできなかった。
「ですが、私は外の世界を知りたいのです。貴方がかつてそうしていたように、どこか、この国の外で苦しむ誰かを助けたいのです」
それは反論ではなく、ただ胸に秘めたものを吐き出すだけの行為。
かつて父が今の私ぐらいの歳の頃、まだこの国の周辺では諍いが多くそれを治めるため多くの戦いがあったと聞く。
そしてその時に父は王家の人間ではありながらもその武勇で傷つく人々を救ったという。
故にこれは私が描いた夢でもあり、そしてやはり父の背中を追うための願いでもあったのだ。
「お前は私とは違う。もはや我々が剣を取る必要もなく国は治められている。必要なのはそれを導く存在なのだ」
そんな私の言葉を父はただ正しい言葉で否定した。
幼い私が夢見で見たような景色ではなく、もっと確かで価値のあるものを父は見ており、そしてそれは私も見なければならない光景だったのだろう。
「ですが……」
それでも手に掴んだ何かを手放すには私は幼く、ただ父を困らせるだけとわかりながらも食い下がるようにそう言うしかなかった。
それで父の思いが変わるわけもないこともよくわかってはいたがそれでも何かを願うようにその場を離れることはできなかった。
「誰かの為に戦うにも素質というものが必要なのだ」
そうして立ち尽くす私へと父はゆっくりと近づくと、深く言い聞かせるようにそう言った。
「……お前は戦うには才がない。それでは自分をも傷つけるだけだ」
片膝をつき、優しく両の肩に置かれたその手はずっしりと重いものであり、間近にある父の瞳には輝きと共にほんの僅かに哀しみがあるように見えた。
その瞳に今父が語る言葉がきっと真実であり、そしてそれを伝えることは父にとっても辛いことなのだということはぼんやりと感じていた。
「他にもまだ学ぶべきことはある。剣の鍛錬はもう必要ない。いいなラグナよ」
そこにどんな思いを込めていたのだろう、肩に置いた手にぎゅっ、と力を込めた父に私はただ頷くことしかできなかった。
小さな鋼の剣を片手に父の元を去ったのは15の時だった。




