結界魔法-Side:H-
「さて、と」
風が一つ静かに吹き抜ける中、男の呟きは小さなものではあったが不気味なほどにはっきりと響いた。
「とりあえずはこれでいいかな?」
穏やかな口調で頷くような男のその視線の先には巨大な影が一つ。
グゥゥゥゥゥゥゥゥ――……
全身を銀の鱗で覆われた獣が一匹、声にならない呻きを漏らす。
人間など容易に一飲みにするであろう口、その口から覗く牙、地に食い込む爪、どれを見ても死を連想させる巨竜がしかし今はまるで何か見えない鎖に縛られているかのように身動き一つとることなく停止し、男はそれを観察するように眺めている。
「はははっ、いやはや流石は『裁典』殿、全く見事な仕事ぶりです」
そしてそんな男に対して乾いた笑いと共にわざとらしい賛辞の言葉を送るものが一人。
丸い眼鏡の奥の瞳を細め笑みを作りつつもそれは硬く強張っている。
「ただですね……その」
「うん? どうかしたかいファウマス君」
そしてその硬い表情のままファウマスと呼ばれた男が気まずそうに何かを言おうとしたがそれを男――アルフェムが止めた。
すっ、とこれまで眼前の巨竜に向けていた視線が己に移った瞬間、ファウマスの身体が小さく跳ねた。
否、正確には跳ねようとしてその身体はほんの僅かにも動くことはなかった。
銀の竜と同じく、見えない何かに縫い留められているかの如くファウマスの身体もまたその自由を失っていたのだ。
「ああ、君の身体も拘束させてもらっているよ。すまないね」
乾いた笑みのまま僅かに顔を青くしている自分に対し申し訳なさそうな口ぶりでアルフェムはそう言うが、それが決して本心からではないことをファウマスは知っている。
――法制局審問室室長アルフェム・ギィンライト・サダンクロス。
この国の法を司るものにして、秩序の番人。
罪人を量り裁く権利と力というのは決してただの概念的な話ではなくこの男の行使する魔法に由来する。
それは単純にして規格外の『結界魔法』
対象とする範囲、条件の下でありとあらゆる現象に制約をもたらす結界を張るという力は物理的な攻撃をするものではないがその規模と制圧力は王国内でも群を抜いている。
差し詰め今は『範囲内の対象の行動を制限』といった結界でも貼られているのだろう。
その力が自身に向けられたことで身体は自由を失い、ファウマスはただ困ったような顔をするしかない。
「君にも聞かないといけないことがあるんだけど、どこから聞いたものか……」
「ていうか、こっちはどうすんのよぉ」
そんなファウマスを前に思案顔で何かを考えているアルフェムに対し、やや呆れた様に背後から声をかけたのはフレヤであった。
身動きを封じられたものたちを遠巻きで眺めているその顔は薄ら笑いを隠そうともしない。
それが自分を嘲笑っていることは明白であるがしかし対抗しようにも動くのは口だけであり、余計に相手の嘲笑を誘うだけであろうとわかりファウマスは何も言うことはなかった。
「ああそうだね、君たちについても考えないといけないね」
そうしてフレヤの言葉に何かを思い出したかのようにアルフェムは背後を振り返る。
視線の先にはフレヤと同じく今の状況を腕を組み静観している鎧の男――レヴルス。
そしてその男の前に立つ二つの小さな影。
その身にはアルフェムの結界魔法は及んではいないのだが硬直したように動くことはない。
それは魔法や何かではなく、ただ射貫くかのようなレヴルスの視線にさらされているため。
「君は確かファウマス君の部下だね。ええっと、確かセイプル君かな?」
穏やかな表情、口調ではあるもののその瞬間小さく身体が跳ねたのは決して自分が緊張しがちなせいではない、と名を呼ばれた少女――セイプルは感じていた。
「そして……この子が例の侵入者なのかな?」
そしてもう一人、この状況に顔を青くしているセイプルとは対照的に明らかに不満げな表情を浮かべ抗議の意を露わにしている少女を見ながらアルフェムは問いかけた。
「だったかもな」
それに対し実に投げやりな態度で返したのは退屈そうに地に胡坐をかいているトールであった。
「侵入者を見た君の証言を参考にしたかったんだけどね」
「いちいち覚えてねぇよ、顔なんて」
その口ぶりに困ったようにアルフェムはそういうがトールは変わらず大して考えた風でもなくそんな答えを返すのみだ。
確かに昨日、交戦していたオルディンに割り込むようにして攻撃をしたのは事実ではあるがそれも一瞬のことであり、何より自身の放った魔法によって相手は地下へと消えて行ってしまったのだから顔を覚えていないというのは決して嘘ではないのだ。
――先ほど一度だけ戦ったあの男の他にもう一人誰かいたような気もするが思い出そうという努力をする気にもなれなかった。
「やれやれ」
その記憶からは確認が期待できそうにないとわかるとアルフェムは少しわざとらしくため息をついて見せるがトールがそれに反応することはなかった。
「さて、そうすると直接聞きたいところなんだけれど……お嬢さん、君が昨晩の王国への侵入者、ということで間違いないのかな?」
まるで迷子の子供に語り掛ける様な言葉に対し、少女はさらにその顔をむっ、としかめて応えた。
その口調が気に食わなかった、ということもあるがそれよりもその言われようだけにはどうしても頷くことができない。
「お、お嬢さんじゃなくて私はヘルマ! それに侵入者っていうけど、私はただ取られたものを取り返しに来ただけだから!」
なのでそれだけははっきりと伝えておこう、と強い口調で反論をしたのだが、その言葉に対して目の前の男の瞳がほんの僅かに驚きに見開かれたことをヘルマは見逃すことはなかった。




