絶叫-Side:H-
目指すべきものがあった。
それは憧れであり、夢であり――同時に決して辿り着けない場所だった。
それでも周囲の人々は足を止めることを許すことはなく、そして誰よりも自分自身がそれを許してはいなかった。
至れぬ存在であるとわかっていながらそれを目指すということはどういう行為なのか。
即ちそれは己自身を捨てても進まなければならない道ということ。
それでも――その道を歩むことに欠片程の迷いもありはしなかった。
*
「わわわわわわわ!!」
「ひぃいいいいいいい!!」
悲鳴――というよりも絶叫が響く。
しかしそれは空気を震わせ遠くまで届くその前により大きな音に踏みつぶされるように掻き消える。
ゴオアアアアアアァァァッ!
耳どころか身体全体を叩く振動がその声によるものなのか、その巨躯が一歩踏み出す振動なのか、或いはそれらが全て混ざったものなのかはわからないが、しかしどれであろうと同じことではあった。
ガァアアアアアアアアアアアア!!
石でできた通路を踏み砕き、周囲の建造物を薙ぎ払い、人間など軽く丸呑みにするであろう口を大きく開けながら暴力の獣が迫って来ている、という事実だけで今は十分すぎる程だった。
「そ、そんなぁぁぁぁ!!」
泣き出しそうな悲鳴を上げながらそれでも一心に足を回転させる少女――セイプル。
それに並走するもう一人の少女――ヘルマはそれを宥めたほうがいいのか、とも思ったのだがそれを背後の声が許さない。
「セ、セイプル・グニム! これは一体どういうことですか!」
背後から迫りくる銀の鱗でその全身を覆った巨大な竜、その巨躯に見合った巨大な口の前で男――ファウマスは怒りと困惑を交えながらも顔を青くしてヘルマ達二人と同じように必死に地面を蹴っている。
つい先ほどまでその銀の竜の頭上に立ち余裕と愉悦の笑みを浮かべていた顔には今は大粒の汗が流れている。
「ご、ごめんなさいぃぃぃ!」
ドドドッと地面を揺らす振動と己が上司の怒り、そのどちらもが恐ろしいものであることは変わらずセイプルは走りながら天を仰ぐように謝罪を述べる。
「なっ、何でこんな!」
はぁはぁ、と息が荒れていく中でヘルマもまた己が置かれている状況に困惑の声を漏らしてしまう。
*
「『隷属、銀鱗龍』!!」
巨大な口が、鋭い牙が、明確な死が眼前に迫るその中でセイプルはまるでそれを受け止めるかのように襲い来る竜へと手を翳すのを倒れたヘルマは見上げる形で見つめていた。
しかしその行為がヘルマを助けるために咄嗟に取った無謀な行為――ではなく、少女が明確な意図をもって及んだ行為であることはその直前の言葉と姿で伝わってきた。
「セイプル!」
それでも――例え目の前の少女が実は信じられない程の剛力の持ち主であり建物を砕きながら進むその竜すらも止めることができるとしてもその名を呼ばずにはいられない。
仮に少女の行為が意味をなさないものであったのならば次の瞬間にはその身がどうなっているか何てことは考えるまでもなく考えたくのないことだったのだから。
「『隷属』っ!?」
しかし己を食らおうとする竜の前に立塞がった少女に対し驚愕の声を上げたのはヘルマだけではなく、その竜の頭上からこちらを見下ろしていたファウマスもまたその目を見開いていた。
ただ、その驚きの理由はヘルマとは多少異なっているようだったが。
「――っ」
ゴッ――
と空気が一度大きく揺れる振動がヘルマの身体を叩く。
しかしそれは肉が裂け骨が砕けたような音ではなく、巨大な物体が急停止をしたために起こる突風であった。
「――セイプル?」
口を大きく開いたまま、凍り付いたかのように固まった牙の前に立ち、手を翳したままのその後ろ姿に恐る恐るという風に声をかける。
「――大丈夫? ヘルマちゃん」
呼びかける声にセイプルはちらり、と肩越しに背後を振り返りながら答えた。
その顔もその声も先ほどまでと何も変わらないセイプルのものだった。
「セ、セイプル!」
驚きに挙げた声はしかし先ほどのものとは異なり喜びが多く込められたもの。
信じられないことであるが、セイプル・グニムという少女は確かにその腕で荒れ狂う巨竜を一頭静めて見せたのだった。
「……なるほど」
立ち上がりその背中に抱き着きたくなるヘルマに対し苦々し気な声を漏らすのは停止した竜の頭上に乗るファウマス。
「流石の才能、としか言いようがありませんねセイプル・グニム。『隷属』の魔法、野生の生物ならともかく他者が『召喚』した生物に対して成功するなどとは聞いたことがありませんが……」
相変わらず高い位置から見下ろしてはいるもののその表情は先ほどまでの凶悪な笑みからある種の戦慄にも似た緊迫したものへと変わっていた。
「ここで退いてください。ファウマス室長」
「――ッ」
二人が何の会話をしているのかはヘルマにははっきりとはわからなかったが、見据えるセイプルとそれに対して何も言い返すことのないファウマスの姿から状況が変わったのだ、ということだけはわかった。
「『隷属』の魔法など古い書物にしかないでしょうに、一体どこで漁ったのですか?」
「『銀鱗龍』の使役権は僕に移りました。諦めてください」
「くっ……」
それでも己の優位を示そうとするファウマスであったがセイプルに切り捨てられるようにそう言われると小さく悪態をつきながらその竜の頭上から地上へと降りた。
「優れた魔獣使いとは思っていましたが、まさかこんな芸当までできるとは」
「ぼ、僕も初めてだったんですが……」
忌々し気に、しかしどこか呆れたようなファウマスの言葉にセイプルは困惑したように返す。
先ほどまでから一転して今までのセイプルに戻ったかのような姿にヘルマが思わず笑いそうになってしまったところ、
ゥゥゥゥゥ――
低く、地の底から聞こえてきたような音がそれを止めた。
「?」
ぶるっ、と身体が震えたのは気のせいではなく本能的な反応であったのは後から気が付いたことであり、今はその音が何だったのかわからずにちらり、と辺りに視線を移す。
フゥゥゥゥゥゥゥ――
そして――銀の竜と目が合った。
じっと、ヘルマを見つめるその目はただただ獰猛さだけが込められたものであり、視界に映るもの全てを餌として見ているのだろう、ということが不思議とはっきり分かった。
「……セイプル、これって大丈夫?」
「え?」
「……これ?」
何やらわからないがセイプルの魔法によって大人しくなった、という風にヘルマは理解をしていたのだが見つめてくるその視線に何か途轍もなく嫌な気配を感じ念のためにそう尋ねる。
「――あれ?」
そう言われ、セイプルもまた視線をその竜へと向け――
「――あれ?」
瞬きよりも早くその顔を真っ青に染めた。
グゥウウウウウウウ
少女の困惑に応えるかのようにこれまで動きを止めていた竜がゆっくりとその体を起こす。
高く持ち上げた頭部から見下ろしてくるその瞳も、唸るその声もどう受け取っても大人しく言うことを聞いてくれる動物のそれとは思えない。
「セイプル・グニム……『隷属』できているのでしょう?」
己を覆う巨躯の竜を見上げながら問いかけるファウマスのその声が震えているように感じられたのは決して気のせいではないだろう。
「『隷属』……とっ、解けちゃってますぅ!!」
呆然、という顔で同じく竜を見上げながら答えるセイプルの声は既に震えを超えて涙交じりだった。
オオオオオオオオオオオオオオオオ!!
そんな震えも恐れも何もかもを吹き飛ばすかのように竜の咆哮は周囲の全てを震わせた。
「なっ、なんでぇぇぇぇぇぇ!!」
そしてその叫びを合図に三人は同時に大地を蹴った。
行先は未定。
今はただ誰の命令も聞くことのなくなった獣から少しでも遠ざかることだけが唯一の目的なのだから。




