語り部はゆるやかに-Side:M-
「――何を考えているのですか」
「それはどの部分のことだ?」
「貴方の行動の全てです。『魔翁』よ」
既に主のいなくなった部屋から差す光がぼんやりと照らす通路にて対峙する2つの影。
冷たく、射竦めるような視線を放つ女に対してそれを受け止める老人は蓄えた髭を撫でながらあくまでも淡々とした調子である。
「なんだ、儂の話でも聞いてくれる気になったのか?そんなことはとっくに無駄だと思っていたのだがな」
「貴方が何を語ろうと罰を免れることはない、とだけは予め伝えておきます。しかし――」
じっ、と女は視線を老人から外すことなく一歩その距離を詰める。
足元には無残に砕け散った石の塊が散乱している。
先ほどまでは鳥や兵士の形を成していたそれをいともたやすく破壊してのけたその力には内心意外なものを感じていた老人であるが、それにも増して尚驚いたのは女の姿そのものだった。
「しかし、貴方が何を思いこのようなことをしているのか、私はそれを知らなければなりません」
光の下に更に一歩近づく女。
床に着きそうな程の長い髪もその陶磁器のように白い肌もいつものあの人形のような女のもの。
ただ王の言葉を伝える伝書鳩のようでしかなく、本人もそれこそが己の役割とでもいうかのようにそれに徹していた女の目がこれまでのものとは違うように老人――オルディンには見えた。
裏切り者への怒り、王への忠義、何らかの決意――それを何と呼称すれば良いのかその胸の内まではオルディンをしても見抜くことはできなかった。
ただ、それが自分の行いに起因するものであり、彼女がそういう感情を抱くということは実のところ全くの予想外のことであった。
「――そうか」
己を見据える視線に対しオルディンは小さく息を吐きながら答える。
その表情、声はこれまでの淡々としたものから一転、僅かな憂いが込められていた。
「お主がそういう顔をするとはな」
それは憂いであり――砂粒程の後悔の思い。
こういう存在がいるというのであれば或いは――と思いもしたが直ぐにそれは無意味な考察だと切り捨てる。
既に起こした行動はなかったことにはできず、そしてするつもりもない。
何故ならばこれは自分自身が決めた決別の証なのだから。
「ならば、お主にも話はしておこう。なに、そう長くはない。儂を捕らえるのも裁くのもそれからでも遅くはあるまい」
――それでも、その姿を前に口を噤むことはできない。
故に話をしなければならない。
一人の勇者と王の話を。
*
『そのまま進め、――10歩目に右だ』
「ええっと? 8、9、10っ!」
『――よし、そのまま直進だ』
「了解っと!」
暗く狭い通路には1つの呼吸音と1人分の足音、そして2つの声が反響する。
暗い、というのは誇張などではなく本当に辺りには光は一つもない。
夜の森でさえか細くとも月の光が差し込めば影になる部分とそうでない部分が浮き彫りになりそこに輪郭が見えるというものだが黒だけに塗られた世界では自分自身とそれ以外の境界すら曖昧となる。
本能的な恐怖を感じずにはいられないはずのそんな世界の中でそれでも足を動かせているのはそうするように促した男と、そうできるように導いてくれる存在があるから。
即ち既に見えない程遠くに離れたオルディンと俺の腕で指示を出すミールのお陰である。
目が見えていようといなかろうと光のない道では同じことではあるがそれでもミールはどのように世界を把握しているのか、俺の姿と走っている道がはっきりと見えているかのように進むべき道を的確に教えてくれ、そしてそれに従っているとこの暗闇においても俺は壁にかすることもなく進むことができているのだ。
精々気がかりと言えばその指示を聞き洩らさないように神経を使うことと、息が上がらないかということだけのものだ。
「けどすごいな、その体だとこういうこともできるのか?」
しばらくは真っすぐだ、と言われたのでただ足を前に進ませながら闇に響く足音が少し不気味に感じたので気晴らしついでに腕の中の男に問いかける。
『ん? いや、元からこういう感覚には優れていたがね。それでも確かに以前よりは研ぎ澄まされているかもしれないな』
「……」
実のところ半分冗談交じりに言ったつもりだったのだが、本の男の律義なその答えに少し言葉を失ってしまう。
「なぁ……あんたはその……元からそうなのか?」
まるで以前は違った、かのような言い方は流石に流すことができず言葉につまりながらも尋ねる。
『――本当にオルディンは君に何も伝えていないのか。いや、あの場で話すつもりだったのかもしれないが。そうだな……』
こんこん、と俺の足が石畳を叩く音に紛れるようなその声と腕に伝わる重量だけがミールの存在を明らかにする闇の中――俺は微かに俺に語り掛ける一人の男の姿を垣間見た気がした。
『では道すがら話はしておこう。最初に言っておくと君には大して関係のない話ではあるがな。しかし全くの無意味なことというわけでもないだろう』
眠れずにぐずる子供語り掛けるようにゆっくりと物語を紐解くミール。
相変わらず無機質な声は通路に響くことでどことなく不気味なようにも感じられるがしかし既に俺はその言葉の続きが気になって仕方がなかった。
『まず、私ミール・フラムスルス・ノーデルハンについてだが、私は決して羊皮紙と筆の間に生まれたわけではなく、かつては君と同じ人間だったのだ』
「……」
『――おいおい、冗談には少しは答えてくれ。話が弾まないだろう』
無言で耳を傾けている俺に少し呆れたようにそう言うが、しかしいきなりこうも衝撃的なことを言われると反応に困ってしまう。
「あ、あぁすまない。ちょっと驚いてたもんで」
『――まぁいいだろう。そしてあの頃はオルディンと共に色々とクエストに挑んでいたものだが――ん? あと5歩で右だ』
「ちょっ、ちょっと待ってくれ! 何だって!?」
さらり、と的確なタイミングで入れられた指示に身体は半自動的に右へと舵を切っており、壁に激突することはなかった。
しかし間髪入れずに投げ込まれる爆弾には流石に頭の処理が間に合わず角を曲がったところで足を止めてしまう。
『どうした? 疲れているのなら申し訳ないが立ち止まっているのは得策ではないぞ』
「……えっと? あんたとオルディンはその?」
『あぁ、かつては同じパーティーの一員だった。まだオルディンが髭も生えていない若造の頃の話だがな』
「はぁ……」
いちいち驚いている方がおかしいのか、と思ってしまうほどに山盛りの情報を一息に流し込んでくるミールの言葉に小さくため息をついてしまう。
言葉を失ってしまったがとりあえずこの本とあの老人の関係、そしてその歴史を何となく理解させられてしまった。
『まぁパーティーの勇者は魔法も何も使えない男だったがな、だがそれでもあの頃はそれなりに楽しい時代だった』
「――」
この調子では次はどんな話がくるのか、と俺なりに覚悟を決めて耳を傾けていたのだが――それでもその一言にはついに呼吸も忘れる程に何の反応もできなかった。
何かを懐かしむような口調で語られる、どこかで聞いた、よく知ったような人物の話に止めていた足を動かすことも忘れた。
今はただ、腕に抱えたミールを落とさないようにすることだけで精一杯なのだった。




