闇への逃走-Side:M-
二つの瞳が俺を捉えている。
暗闇から溶けて出てきたようにまだその身体は光の下には立っていないがその水晶のような瞳だけははっきりとこちらからも見ることができそれと視線が交わる。
その言葉にも表情にも喜怒哀楽といった感情を露わにすることはないが、その瞳からはあの部屋の時と同じく重く冷たいものが放たれているように感じられた。
「お前は……」
暗い通路の奥、俺たちからは僅かに離れた場所に立つその女に声をかけるものの、向こうは語ることはないと口を閉ざし何かが返ってくることはない。
『何だ追われていたのか』
「追われてなければもう少し大人しく入ってくるわ」
『それもそうだな』
しかし突然のその登場に困惑をしているのは俺だけのようでありオルディンとミールは何てこともない様子である。
――様子と言ってもミールの感情などは外見から判断することはできないのだが。
『しかし、君も久しいといえば久しいな。相も変わらず己の意志というものはないようだが、せっかく自由な手足があるのだから好きなように生きればいいものを』
「――」
『いや、余計なことだった。幸福は人それぞれだ』
沈黙する女に対してミールは言葉をかけ続ける。
オルディンと同じくミールにとってこの女もまた知り合いなのだろうか。
気の知れた相手に向けた言葉のようでもあるが、しかしどことなくそこには棘というか相手を煽ろうとしているような意図が込められているように感じるのは思い違いではない気がする。
「――よろしいですか?」
ミールの言葉をどう受け取ったのか、女は変わらぬ無表情のまま更に一歩こちらに歩み寄ってきた。
暗闇から明かりの下へ出たことでその姿がよりはっきりと見ることができたが別に何が変わったわけでもなく、どちらかと言えばその冷たい目が明瞭に見えるようになっただけだ。
「……っ」
後ずさりをしそうになったが直ぐに止めた。
正確に言えばできないことに気が付いた。
何しろここは暗い通路の最奥、背後にあるのはミールがいる小さな部屋だけであり、そこから更にどこかに通じているようには見られなかった。
つまり――あっさりと追い詰められてしまったというわけだ。
「これも“王の意志”か?」
「言うまでもなく」
しかしオルディンはあくまでも追いついた様子でそう尋ねる。
既にこの女には敵として見られているということは彼自身がよくわかっているであろうに態度を変えることのない老人に女もまた淡々とした口調で返す。
「その“意志”に従うのはお前も意志か?」
「――」
「お前も何も知らないわけではないだろう? それでも――」
「それ以上は不要です。『魔翁』オルディン・アブルスラーム、まずは貴方を王の光を以って裁きます」
更に一歩、これまでよりも僅かに強く石畳を叩きながら歩み寄る女。
その歩調にも、オルディンの言葉を遮るようなその声にも、初めて明確な“怒り”といった感情を含ませている女の変化に意識を割いていたためか。その手が強く輝きだしたことに気が付くのに反応が遅れてしまった。
薄暗い地下の通路を一瞬広く照らす瞬き。
それは先ほどあの部屋で俺の手と、そこに握られていた黄金の欠片に降り注いだ光と似ているような気がして――
「――『Bird‐On』!」
その光が何であれただ空間を照らすための灯りでないことだけは確かであり、それが明確な敵意と共に放たれるまでは瞬きの時間も必要としない。
その光を前に自然と手を前に翳していたのはせめてもの抵抗だったのだろうか。
避けるにも防ぐにも遅く、元よりその手段もなく、ただ真っすぐに視線をそらさないようにするだけしかできなかった俺の目が捉えたのは老人の声に応えるようにしてその石の羽を広げた一羽の鳥だった。
『――!!!』
「っ!」
杖などを構えることもなくオルディンの言葉一つでどこからともなく滑空をしてきた石造の鳥はその身体で目隠しをするように女の眼前で羽をはためかせ、女は反射的に追い払おうとその手からの攻撃を一時的に停止する。
「走れ! 小僧!」
「っ!?」
じっとその手の光を見つめていた俺の意識を呼び戻すかのようなオルディンの声にはっ、と視線を向けると何かが飛び込んできた。
「うおっ!」
一瞬視界が真っ暗になり慌てて手を出して受け止めたのはずっしりとした重量とよくなめされた革の感触。
それは背後の部屋に一人鎮座していたミールその人であった。
『全く随分と乱暴な扱いだな』
「破れなかっただけ感謝しろ。おい小僧、さっさとそいつと一緒に行け!」
「い、行くってどこにだよ!?」
「ええい、道案内はそいつがする!」
投げつけるようにして渡されたミールを抱えながら困惑してしまう俺にオルディンは苛立っているようだがこちらとしてもあまりに急なことで理解が追い付かない。
「ここで死ぬつもりではないだろう!」
いいから行け、と察しの悪い俺にはっきりとそう言うオルディンの言葉にしかし反って足が動かなくなる。
「……お前はどうするんだよ」
「人のことを心配できる程か。大したことではない、この程度のこと」
この男の力の全てを知っているわけではないが、同じく目の前の女の力も知っているわけではなく、そして何故そうしようとするのかもわからず尋ねた俺の言葉にしかしオルディンはあっさりとそう返してきた。
それが本心なのか、それともそうでないのか、と考えている間にガン――ッ、何かが砕ける音が響いた。
「逃走は無意味です」
ボロボロと砕けた石の鳥を足元に女の目とその手が再び俺たちを捉えていた。
『――走れメルク・ウインド。道案内は私がしよう。ここでは我々にできることはない。それに君もここで死ぬわけにはいかないだろう』
その姿を前に目もないただの本にしか見えないがこの状況がわかるのか、俺の腕の中で静かにそう呟いたミール。
その言葉にようやく頭が切り替えることができた。
「……追って来いよ!」
今伝えられる精いっぱいの感謝を合図として地面を蹴る。
どういうわけか俺を生かそうとしている男のその思いに応えるには今はただ足を動かすしかないのだから。
「っ! 待ちなさ――ッ」
「『Knight-On』!」
女の脇をすり抜けるようにして駆ける。
背後ではそれを呼び止める声と、それを塞ぐ音が聞こえるが、振り返ることはなく暗い闇の中へと俺は飛び込んだ。




