今振るわれる力-Side:H-
「ヘルマちゃん!」
「っ!?」
ドドドドドーーッ!
けたたましい轟音と共に周囲の建物を引きつぶしながら迫りくる巨躯の獣から逃げるために全力で足を動かしていたところ、急に耳に飛び込んできた並走するセイプルの言葉にはただ顔をちらちと向けることしかできなかった。
一体どうしたのだろう、と尋ねようとした瞬間、ザッ、という鋭い音と何かが足元を通り過ぎた気配がして、そして、がくっと足に力が入らなくなった。
力の限り前進に力を込めていた足がもつれるようにして力を失ったことで体勢を崩したヘルマの身体はその勢いのままに石畳の上に転げる。
「っ……」
一体何が起こったのだろう、と己の足を見るとそこには小さな赤い線。
何かで引っ掻いたかのような細い切り傷が一本引かれ、その痛みに反射的に足がよろけたのだと理解した。
傷ついた個所を確かめてしまうのは本能的なものでありそれをしてしまったことを咎めるものはいない。
しかし、今この状況に限って言えばその本能を何とか抑え込んででも足を動かし前に進むべきだった、と一瞬後に後悔する。
「おやおやおや、お怪我ですが? いけませんねそれは、直ぐに医務室に連れて行かなければ。野生の生き物だって傷ついたときは静かに休むものですよ」
ズンッ――
ひと際鈍い音で地面を揺らしながら巨大な影がすっぽりと倒れたヘルマとその脇で心配そうにしているセイプルに覆いかぶさる。
「ッ――」
「あっ――」
悔し気に歯噛みをするヘルマとさぁっと顔を青くするセイプルとは対照的に巨大な龍の頭の上でファウマスはその眼鏡の奥の瞳を線を引いたように細めて微笑んでいる。
「――さて、この辺りでもう宜しいですか?」
にっこりと微笑むファウマスの肩に一匹の小さな生物が這っている。
小さな体に小さな羽の生えたそれが『飛翔蜥蜴』と呼ばれる生物であり、召喚されたそれがヘルマの足を引っ掻き転倒させたのだということは当のファウマスとセイプルしか知らないことであった。
「やれやれ、元気なことは結構ですが逃げ回るのも程々にしてもらいたいものですね。おかげで随分と乱暴をしてしまいました。まぁどうせ空き家なので困るものもいませんが」
わざとらしく肩をすくめながらそんなことを言ってくるファウマスを見上げながらしかしヘルマたち二人は動けないでいる。
足の痛みはほんの一瞬のものであり、最早立ち上がって駆け出すことには何ら支障はない。
だが、眼前で低い唸り声を上げる獣のその鋭い目や牙がそれを許さない。
実際にできるかどうかではなく、それは巨大で危険なものを前に感じる本能による拒否反応。
立ち上がって背を向けようものならばその口は小さな二人など楽々と丸のみにしてしまうであろう。
故にできることはただ見下ろしてくる男をまっすぐに見返すことだけ。
「ふぅ、どうやら何か勘違いをされているようですが別に私は貴女達に何か酷い暴力を振るおう何てことは考えてもいないのですよ? 最初から言っているように捕えた後、然るべき罰を受けてもらいたいだけなのですよ」
見つめ返してくるヘルマたちの視線に対してファウマスはあくまでも笑顔を崩さないがしかしその言葉の端々にある危険な匂いは幼い二人にも十分に伝わっていた。
「――と思っていたのですが」
そして実際のところ、ファウマス自身もそれを隠そうとはしていなかった。
「気が変わりました。人に暴力を振るうような方にはまずは痛みを以ってしっかりと躾をしなければいけません」
にんまり、とその口角を吊り上げながら見下ろしてくるその瞳はおよそ庇護の対象へと向けるものではなく、ただ己の苛立ちをぶつけようとしているだけのものだった。
「まっ、待ってください室長!」
その男の前に立塞がったのは震えた声のセイプルであった。
未だに倒れたままの姿勢のヘルマと銀の鱗の龍の間に立ちじっとファウマスを見上げるその顔は少し青いもののそれはいつも怯えている少女とは思えぬ姿であった。
「あっ、あの……どうか話を――」
「いいえ聞きません。というよりもセイプル女史、貴女も同罪ということはよくおわかりでしょうね? 侵入者を庇うだけでは飽き足らず自分の上司にたてつくなんて到底許されることではありませんよ」
「そ、それは……」
「――しかし、今ここで心を入れ替えるというのであれば私も懐を広くしても良いでしょう。言葉の意味はわかりますね? セイプル・グニム」
震えながらしかし目を逸らそうとはしないセイプルに対してファウマスはわがままをいう子供をなだめる様な口調で語り掛ける。
その言葉が何を意味しているかはセイプルにも、背後のヘルマにもよくわかっていた。
――ヘルマの身を差し出せ。そうすれば一度は許す。
「貴女は才能に溢れる人間ですからね。私としても心が痛むというもの。さぁセイプルさん、貴女の本懐を思い出しなさい」
「……」
微笑みながら、招く様な言葉。
だが、これは決して対等な提案でもなければ自由な選択などでもない。
元より片方の道には己の命の危険がある以上それは既に一つの暴力である。
「……」
ファウマスの言葉は針のようにその身を刺し、その痛みに身体を震わせながらそれでもセイプルはヘルマの前から動こうとはしない。
「――できません」
「ん?」
「それはできません、ファウマス室長」
声と身体は震えたまま、しかしきっぱりと少女は眼前の龍とその指揮者に対して言い切った。
「――は」
その言葉と視線を受け、ファウマスはがくっ、と力が抜けた様に頭を下げ――
「はっ、ははははっ、ははははははははは!! そうですか、そうですか! いけませんよセイプル・グニム! 生まれたての獣のようにおとなしく私の言うことだけ聞いていればいいものの、そんなことを言われてはまずは貴女から躾なければいけなくなるじゃあないですか!」
一転、のけ反る程に腹を抱えて嗤った。
それはアルーナの部屋に現れた白いマントの男の何かを楽しむような大笑とは異なる、ただ嗜虐でのみ構成されたそんな笑いであった。
ガッーーー!!
そしてその笑みが何かの合図であったかのように、ファウマスの駆る銀の龍がその口を大きく開け、覆いかぶさるようにセイプルに向かってきた。
「――ッ!!」
ズラリと並んだ牙は触れただけでも肌を引き裂きそうな鋭さであり、その口が閉じればセイプルの柔肉など一切の抵抗もなく断裁されるであろう。
明確な死の列が眼前に迫る中――セイプルはそれでも動かない。
「セイプル!」
恐怖で動けないのかその足を動かして逃げろ、という思いを込めてその名を呼ぶ。
しかしその声に応えたのは――眼前の少女のその右腕だった。
「――大丈夫、きっと」
銀の死が激突するまでもはや瞬きの間の必要としない刹那の中、小さく呟いた言葉は或いは自分自身に向けたもの。
地を削る轟音も、空気を振るわす咆哮も耳には入らず、今はただその手をまっすぐに前へと翳し――
「『隷属、銀鱗龍』!!」
その掌を眩く輝かせながら、少女は高らかに叫んだ。




