動き出すものたち-Side:M-
外壁を昇り始めてどれほど時間が経っただろうか。
下に視線を動かせばそれもはっきりするだろうが地上との距離を目視で確認することは自分にとっていいことはなさそうなのでやめておいた。
その代わりではないが今まで前方だけを捉えていた目をちらりと横に向けてみる。
「っ――」
思わずごくりと唾を呑みこんでしまったのは何かが見えたからではない。
むしろその反対。
僅かに横に向けた俺の目に映ったのは実に開放的な光景だったのだから。
地上にいた時には周囲には背の高い建物があり、どこにいても何かしらのもので視界がふさがれていた。
しかし、今やそれらの構造物は俺の眼下に立ち並び視界を遮るものは何もなく、遠く離れた場所に建つ建物の屋根がちらりと見えた。
つまりそれほどの視界が確保できる程には上に来てしまった、ということだ。
「……よしっ」
ふっ、と一度短く息を吐く。
心というものが器であるのなら、今はその中身を『気合』や『やる気』といったもので満たすことに専念する。
『弱気』や『恐怖』といったものが忍び込む余地を作ってしまってはそれは瞬く間にその器に満ちその重量で俺の身体は動かなくなる。
そしてそれは俺が地上に落下するときでもある。
今行っていること、この状況が明らかに異常な行動であるとは自分自身がわかっているが、しかしこの状況を維持するためにはその異常さを貫かなくてはならないという矛盾。
「っ――」
王城はやはりかなり古い時代に建てられたものなのだろうか。
こんな高い外壁まで誰がどうやって掃除をしているのかはわからないが汚れや苔などはなくよく管理はされているようではあるが、しかしそれでも時間の経過による影響だけは完全に防ぐことはできない。
城を構築する石は雨風に晒されたためか決してまっ平な面となっているわけではなく一部が削れていたりと間近で見れば凹凸があり、実を言えばそれをとっかかりとして昇るという行為自体はそれほど難しいものではなかった。
また、流石は城といったところか、所々には意味があるのかないのかわからない装飾のようなものが取り付けられておりそれは登頂するものにとっては最適な足場となっていた。
「よし、ここなら――」
既に己がある程度の高度までいることはわかっている。
ここまで一心に上を目指してきたが、別に俺の目的は別にここの頂上を目指すことではなく高い視線に立つことである。
そう考えればここらが頃合いかと判断し、何かの装飾らしきものを足場とし一度足を止める。
「うわっ……」
足場の感触を確かめつつなるべく真下は見ないように、ゆっくりと振り返るとやはり視界を遮るものは何もなく、遠くここら一帯をぐるりと取り囲む外壁まで一目で見渡せる光景が広がっており思わず声が漏れる。
この地点に昇ってくるまで何度か窓枠らしきものが見えたが王城の中からもこんな風景が見えているのだろうとふとそんなことを考えながら、確かにこれなら早そうだ、とあの老人の提案に今更ながら感謝をする。
ここなら俺の視界もよく確保され、そして向こうからも俺が目立って見えるだろう。
それならあとは――
「おーい!! ヘルマぁ!!」
叫んで探すだけのこと。
*
「ちょっとぉ、何よこれ?」
鳴り響いたその声にフレヤが天井を、正確にはその向こう側にいると感じた何かを見やる。
この国において、どこからともなく『声』が届くということは珍しくはない。
しかしそれはある決められたものからのみ発せられるものであり、そして今の声には全く聞き覚えがなかった。
「ははっ! おいおい何のつもりだよ!」
フレヤの疑問に答えることもなくトールは先ほどまでの不機嫌そうなものから一転その顔を笑みに変え弾けるように椅子から立ち上がる。
彼自身先ほどたった二、三言のみ会話を交わしただけでありその声をはっきりと覚えているわけではない。
だが、こんなことをするものがこの国の人間であるわけがなく、必然それはあの男であるという確信が彼の中にはあった。
上、いや外か――
何故そんなところにいるのか、などということはどうでもいいことである。
ただ先ほど消化不良のまま終わってしまった戦いの相手が目を覚ましてそこにいるというのならそれで結構、それならこのまま第二回戦だ、と最短距離で窓枠を突き破ってでもその声の主の元へ駆け出そうとしたその身体を、
「トール!!!」
声が制した。
否、制したというよりもまるで声そのものが形を持って物理的に壁となり立塞がったかのような圧で身体が止められた。
「っ――」
飛び出そうとしたところを止められ円卓の上に立ち尽くした形となったトールのその表情は再び不機嫌そうなものへと戻っていた。
否、不機嫌というよりもそれは明確な怒り。
楽しみにしていた遊具をとりあげられた子供のような純粋な怒りと子供ならざる敵意と殺意をない交ぜにした視線が目の前の男に向けられている。
腕を組んだまま声でのみ己を制した鎧の男レヴルスへと。
「何だよ?」
「どこへ行くつもりだ?」
「あ? 聞こえてなかったのか、侵入者だぜ侵入者。王様のために速やかに処罰しなきゃいけねぇだろうが」
王の為――とはいいながらもそんなことは毛ほども思っていない声と表情で吐き捨てるように問いに答える。
飢えた獣が牙を剥いているような、それだけで人を殺めてしまうこともできそうなトールの姿を鎧の中からレヴルスはじっと射抜いて離さない。
「私が出る」
「は?」
そしてそんなことを言いながらゆっくりと立ち上がるレヴルスにトールは呆れたような怒り心頭のような声を殺意を込めて漏らす。
「私が出る」
だがそんなことなどどうでもいいと言わんばかりにレヴルスはその殺意にあっさりと背中を向けると窓の方へとゆっくりと歩みだした。
「ッ――……そうかよ」
それがどういう意味を持つ行為であるかは沸騰しそうな頭でありながらわかってはいた。
ただ、今目の前にいる男が見せた行動が自分の許容を優に超えていただけのこと。
「『奔れ』!!」
敵味方という判断の線を越えてきたのは向こうの方。
その態度はこうなることも覚悟のうえであろうな、とトールはその背中に向け迷うこともなく穿通の雷を奔らせた。
「――ッ」
それを鎧は振り返ることもせず受け止める。
静謐と平穏のみが満ちるはずの空間に激しい破壊の音が鳴り響く。




