目覚めと傷-Side:M-
「……」
真っ暗な世界に静かな音が聞こえてくる。
何かが流れる穏やかな音色。
直ぐ耳元で聞こえるそれが早朝に響く鳥の声のように朧気な頭によく染み渡り、緩やかに覚醒を促す。
「ッ……」
目を開ける。
その行為をすることで今自分が目を閉じていたということを悟る。
「おはようございます」
瞼を開けたばかりの目に小さな灯りが飛び込んできたのとその声が聞こえてきたのは同時だった。
目の前に見えるのは見慣れない光景であったがその声にはよく聞き覚えがあった。
「アルーナ?」
まだ覚醒しきっていない意識ではその声がどこから聞こえてきたのか方向がわからずにきょろきょろと首を動かす。
そしてそうすることでどうやら自分が寝転がっているのだ、ということにも今更ながら気が付く。
「はい」
俺の問いかけに短く答える声は直ぐ傍らから聞こえ、そこへ視線を動かす。
「御気分はいかがですか?」
小さな灯りだけの空間でもよく目立つ金の髪をしたアルーナが椅子に腰かけ俺を見つめていた。
緩やかに覚醒へと向かっていく頭ではまだ状況がうまくは掴めていなかったのだが見慣れた人物の姿に多少心が落ち着く思いがした。
「ん? あ、ああいや何ともないよ」
今の問いかけの意味は正直なところよくわかっていなかったのだが、心配をされていたようだったので反射的に問題がないという旨を返してしまった。
「そうですか」
いい加減な俺の回答に納得をしたのかしていないのか、そういうアルーナの言葉に込められた感情はよくわからない。
そんな生返事をしながら俺はゆっくりと身体を起こし、周囲を見回す。
「えっと……」
そこは石でできた空間だった。
全体を囲むのは重い石作りの壁。
その四方のうちの一面に古びた木でできた扉が見え、そこが出入り口であり即ちここが部屋であるということがわかる。
ゆらゆらと揺らめく小さな火でも照らせるほどの広さに何となく、石窯の中にいるような気持にさせられる空間。
あるものと言えば俺が寝転がっていた寝台とその傍らにアルーナが座る椅子、そして小さな作業台らしきものだけの無機質な世界。
よく耳を澄ませると何かが流れる音が聞こえてくるがそれはあの扉の向こうから聞こえてくるのだろうか。
どう見ても人が日常を営む空間ではなく、まるで牢獄か何かのよう。
本の山ではあったが、これなら先ほどのアルーナの部屋の方がまだ――
「!? ここは!?」
ぼうっとした頭で色々と考えているうちに思考がそこへたどり着く。
本に覆われたアルーナの部屋のこと。
そこに訪れた破壊、空へと消えていった少女、そして現れた新たな敵の存在。
体験した様々な出来事は一本の線ではなく、ちぐはぐとした順番で呼び起こされ事の前後を整理はできていなかったが大まかな記憶は蘇った。
あの時現れた男を何とかしようと思って、俺は――
「ご安心ください。ここは安全です」
比較的にですが、と短く付け足しながらアルーナはそう声をかける。
瞬間的に沸騰したように浮足立った俺の心だったがその言葉に少し落ち着かされた。
否、心境だけでいえばそのまま飛び起き目的もなく足が動いてしまいそうな勢いだったのだが身体が重くそれが出来なかった、という方が正しいのかもしれない。
「……ここは?」
もう一度、今度は冷静になったはずの頭でそう尋ねる。
「古い研究室です。地下にあってもう誰も来ることのない場所ですのでここが良いかと」
その問いかけにふっ、と天井で揺らめく灯りに視線を移しながらそう答えたアルーナの言葉にはどこか寂しさのような、懐かしさのようなものがあるように寝ぼけと困惑でごちゃごちゃとした頭でそう思った。
「そうか……悪かった」
反射的に口をついて出たのは謝罪と感謝を込めた言葉。
記憶にある最後の瞬間は男に馬乗りになり、そして遠ざかっていく世界の風景。
それが意識を失ったためである、ということを認識できる程にはだいぶ頭は落ち着きを取り戻していた。
何故今俺たちが無事なのか、結局ここが一体どこなのかはわからないが気を失った俺をここまで運んでくれたのはアルーナであることは間違いない。
「いえ、本の整理よりは楽でしたので」
目を伏せながら少し口角を上げそう返すアルーナ。
それが本音なのか、或いは彼女なりの冗談なのかは掴めなかったがそうした反応を示してくれたことは何となく嬉しいものに感じられた。
「っ……」
とは言え、俺を担いでここまで運んできたとすれば随分と無理をさせてしまったとも思うのだがそれも魔法で何とかしたのだろうか、などと考えつつ上半身だけを起こしていた身体を動かそうとして、痛みに声が漏れる。
「まだあまり動かない方がいいですよ。少し傷ついてますので」
そういうアルーナの目は俺の腕へと向けられている。
その視線を追うように己の腕を見る。
「?」
見慣れた己の右腕。
別に動かないわけでもなく、外傷もない。
ただ――それはあの時、あの雷の男の力と正面からぶつかりあっただけの腕。
「ッ――」
そのことに思い至り少し血の気が引く。
全く計画などもなく、ただがむしゃらに破壊の力と相対したことを思い出し今更ながらに良く生き延びられたものだと感心してしまう。
「見た目には問題ありませんが内部が僅かに負傷しているようなのです」
無意味に手を開けたり閉じたりしている俺にアルーナは申し訳なさげにそう言ってきた。
「ですが、私ではそれをどうすれば良いかまではわからず。一応回復の術はかけているのですが効果があるのかどうか」
目を伏せるアルーナには明らかに謝罪の意思があり、それが己の非力さを詫びているのだということは直ぐにわかった。
「ま、待ってくれ! そんなこと言わないでくれよ!」
なので俺は慌ててそれを否定する。
彼女は俺の負傷を治し切れていないことを詫びているようだがそんなことを言われてはこっちの方が申し訳なさでまいってしまう。
気を失った俺をここまで連れて来てくれただけでも俺の方が感謝の思いで一杯である。
「むしろ俺に謝らないといけないことだらけだろ」
「いえ、メルクさんがいなければ私もどうなっていたか」
何となく噛み合わない会話。
生真面目な彼女らしいといえばらしいのだが感謝をさせてもらえない、ということはむしろこの場合では苦痛でもある。
しかし自身の手柄よりも不手際に目が向いている今のアルーナはそう簡単には俺の思いを受け取ってくれるようにも思えず何と言ったものかと頭を悩ませてしまう。
「ではその傷、儂が見てやろうか?」
だから、というわけではないがそう声をかけられるまでまったく気が付くことが出来なかった。
「!?」
それはアルーナも同じであったようでその声の方向に二人同時に顔を向ける。
「ふむ、しかし随分と古びた場所を知ってるものよ」
開け放たれた木の扉の向こう側には一人の老人が立っていた。
それは忘れもしない、この城壁の中で俺が初めて出会った人物。
オルディン・アブルスラームがその髭を撫でながらこちらをじっと見つめていた。




