跳躍、激突-Side:H-
「ゆ、許してあげてください……」
絞り出すようにして紡がれる言葉を少女と男は静かに聞いている。
各々思う所は多少異なってはいるものの両者ともその意味を飲み込もうとしての沈黙であるということは同じであった。
小さく怯えたようでありながら、そうきっぱりと言い切った少女――セイプルの言葉を。
「ふむ」
先に口を開いたのは男――ファウマスの方であった。
もう一人の少女――ヘルマは今の言葉に何と返していいかを見つけられずに口をもごもごと動かそうとしているところであった。
「ふむふむ。それはつまりこういうことですかセイプルさん」
顎に手を当て、何やら思案顔をしながらファウマスはセイプルに視線を向ける。
その目は別に氷のように冷たいわけでも、獣のように鋭いわけでもなく、いつも通りのファウマスの目だというのにその言葉と目にセイプルはぴくっ、と背筋を正してしまう。
「このヘルマさんという方は昨晩の侵入者であるかもしれないが、それは可能性であり捕らえる必要はないのでここで見逃してあげましょう、と貴女はそう仰るのでしょうか?」
まっすぐに見つめながら問いかけられる。
親が子に尋ねるように、教師が教え子に諭すように、そこには棘も圧もなく、ただ貴女の考えを教えてくださいという穏やかな歩み寄りだけがある問い。
しかし、それでも尚――
否、それ故に――
セイプルはその問いに言葉を返せずにいた。
「あっ……あの……」
つい数瞬前の自分を見失う。
何故あのような言葉が口をついて出ていたのか、もしそんなことを言えばこういうことになる、何てことは考えるまでもなくわかることだというのにその瞬間の自分の行動が自分自身で理解が出来ない。
ただ、理解はできずやってしまったという焦りはあるものの、やらなければよかった、という後悔だけは不思議となかった。
その感情を言葉にできればいいのかもしれないがしかしそれは更に深い詰問を招き寄せるだけのような気がして結局文字に変換することはできない。
「ふむ……困りましたねぇ、いやいや貴女からこうした意見が出るとは大変貴重なことこの上ありません。檻狼と巨躯猿が仲睦まじく会食をすることよりも貴重なことです。ええ、私としてはそれをしっかりと尊重したいのですが――」
困りましたね、と一人呟くようにファウマスは語り続ける。
「……」
僅かに後方でそれを聞いているヘルマにとってそれはほとんど何を言っているのか意味の分からないことであった。
しかし先ほどまで追跡をしてきたファウマスという男の注意は今は現れたセイプルに向いている。
無論それが隙である、と受け取るほどヘルマも楽観的ではないが今ならば再び走って距離を開けることぐらいはできるのではないかとも思う。
そうすればあるいは逃げ切ることもでき、離れ離れになったメルク達とも合流が出来るのでは、とも思いはした。
「……」
思いはしたのだが。
「宜しいですか? セイプル・グニム。物事には正しい扱われ方というものがあるのです。良いものは褒めたたえられなければならず、そして悪いものは裁かれて然るべきなのです」
ぺらぺらとよく回る口で語り続けるファウマス。
傍目から見てもそれは怒号や罵声の類ではなく声色だけで判断すれば穏やかと言える口調。
しかしそれを受けるセイプルの姿は益々小さく縮こまっているようにヘルマの目には見えた。
ファウマスの問いと、セイプルの怯えが何に由来するものなのかはもちろんわかっている。
自分を庇うかのようなあの言葉が今この状況を作り出しているのだ。
その事実にヘルマは胸の奥がざわざわと揺らめくのを感じていた。
それは何故――
「つまりですね? 罪人をただ己の感情のみで良しとするということは法の秩序というものからはかけ離れた行為なのですよ。もちろん罪人の可能性がある、ということでもそれは同じなのです。それが善であるか悪であるかということは誰か一人が決めることではありません。正しく図られ等しく裁かれるべきなのです。わかりますか?」
セイプル・グニム、と名を呼ばれはっ、とセイプルは伏せていたその顔をファウマスに併せる。
背中を向けているファウマスの顔はヘルマからははっきりと見えないが、セイプルの表情はよく見えた。
今にも泣き出しそうな顔をした少女。
その表情だけでも少女の胸の内が透けてきそうな悲痛な面持ち。
そんな顔をしながら、それでも決して己の口にした言葉を否定しない――そんな少女が目の前にいた。
それがヘルマの心の揺れを大きな振動に変えた。
「ふむ、そうですか。いえいえ人の意思とは何であれ尊重されるべきものです。なので私はそれを否定しませんよ。ただし――」
そんなセイプルを前にしてファウマスはそう言うと一歩その足を前に進める。
「罪人を庇う、ということがどういう意味を持つことなのかは貴女自身がしっかりと知らなければならないことですよ」
そう言いながらファウマスはその手をセイプルへと伸ばす。
セイプルは逃げるでもなく、弁明するでもなくじっとそれを受け入れる。
ただ身動きができないだけなのかもしれないが、その姿に心の振動が手足を動かす合図となって――
「うる――ッ!」
叫びながら、というより声よりも先に足が目の前の男へと伸び、無防備に晒された膝の関節を後ろから的確に捉えていた。
「んんッ!?」
短い声は驚愕と痛み。
直立した足、その膝の関節を後ろから蹴られると、人体はその構造上ごく自然に折りたたまれるようにバランスを崩す。
そしてその重心は前方よりも後方に傾きが強く、身長差故に高くにあったその頭が急激にその高度を落とす。
「さいッ!!」
体勢を崩し、接近してくる男の後頭部。
それに対してヘルマは避けず、受け止めず、飛び込んだ。
「あだっ!!」
地面を蹴って、倒れてくる頭に己の頭をぶつける。
ゴンッ、という鈍く痛ましい激突音と苦悶の声。
人気のない通路に響いたそれはヘルマのものであり、そしてファウマスのものでもあった。




