疾走-Side:M-
「――――ッ」
ごくり、と生唾を飲み込みながら視線だけをゆっくりと背後に向ける。
石でできているはずの硬い壁が何か鋭いもので抉られたかのようにぽっかりと丸い穴をあけていた。
しゅう、と僅かに焦げるような臭いは石から発せられているのか。
目にも止まらぬ速度でそれは俺の顔面の直ぐ真横を通過し、壁を貫通した。
あと半歩、身体が横にずれていれば貫かれていたのは俺の頭部だっただろう。
つぅ、と背中を冷たい汗が流れるのを感じるがそれでも声は殺す。
今の攻撃が俺を狙ってのものだったのか、それともただの当てずっぽうだったのかはわからない。
一刻も早くここから動きたいのが本心ではあったが、逃げ出すのはそれがはっきりしてからでも遅くはない、と今は静かに耐えることを選んだ。
「んん?」
壁に開いた穴を見つめながら男は首をかしげる。
不思議そうな顔と声は実に気軽な風でもあるが、一方で獣の如きその目の鋭さは変わらず、まるで射抜かれているような緊張感がある。
「気のせいか?」
ぼりぼりと頭を掻きながら一歩こちらに近づいてくる。
しかしその口ぶりや態度からどうやら俺たちの姿は見えてはいないようだった。
アルーナの魔法に感謝すると共に、脳内ではこれからのことを考える。
あくまでもこのまま奴がどこかへ行くのを待つか、それとも見つからないようにゆっくりとでも移動をするか。
そのどちらもが同質の危険を孕んでいるような気がして、ちらっ、と傍らのアルーナに視線を向けるが彼女もまたここでどういった判断を下すか決めかねているようだった。
願わくば向こうから立ち去ってくれるのが望ましいのだが――
「まぁいいか」
そんな俺たちの考えなど陳腐なものとあざ笑うように――
男はひらひらと準備運動でもするように手を軽く振る。
その顔をまっすぐこちらに向けたまま――
「とりあえずぶっ飛ばしときゃいいな」
実にあっさりとした口調でそう言うと、その手を前方に翳す。
「ッ!」
瞬間、その掌が煌々と輝き始める。
先ほどの一撃が脳裏をかすめ身体が硬直するが、その姿すら向こうからは見えていないのだろう。
輝き――しかしそれは単なる発光などではなく、目にも明らかな程の膨大な破壊の力の具現。
パチパチと何かが弾けるような音ともに放たれる光は降り注ぐ太陽のそれではなく、天地を割く稲光を思わせた。
「――『悍馬の如く、奔れ雷霆』!!」
そして叫ぶように紡がれる詠唱。
限界まで引かれた弓が矢を放つように、極限まで満ち足りた光がひと際強く輝き、放たれる。
目を突き刺す眩さと耳を劈く轟音を伴って光は雷となり、その雷は波の如く俺たちへと飛んでくる。
「アルーナ!!」
もはや黙していることはできず、そしてその必要もない。
先ほどの一撃が突き出された槍であるならばこれは薙ぎ払われる大斧。
広範囲に放たれた雷に対し、横へ避けることは既に間に合わない――そう判断した俺は傍らのアルーナを両手で押す。
「っ!?」
突如横から与えられた衝撃にアルーナの重心が傾き、姿勢が揺らぐ。
横に避けることが間に合わない以上、その場に倒れてもらうしかない。
いきなりのことではあったが彼女ならば受け身は取れるだろう、と信じての行動だった。
「っ! メルクさん!?」
俺の行為にアルーナは驚愕の声を以って反応を示す。
それはいきなり自分を押した俺に対する罵倒だったのか。
――それとも、放たれた雷に対し、姿勢を低くしながら一直線に向かっていく姿に対しての悲鳴だったのか。
「あん?」
大地を蹴って一歩男に近づく。
それがどれほど危険な行為であるかは理解をしているつもりだが、身体はそう動いていた。
あのまま立っていれば間違いなくやられていた。
では、何とか避けれたとしてそのまま逃げることが出来るだろうか。
この状況で全く音も気配も立てずに逃げる自信はなく、恐らく俺たちの存在に男は気が付く。
そして気が付かれればそのときこそ本当に終わりだ。
ならば、今できる最善は――今この場でこの男と向き合うことではないのだろうか。
実際にはそこまで細かいことを考えていられるほど頭に余裕はなく、ほぼ反射的な行動であったわけだがともかく俺の身体が男に近づいた。
そして瞬間、目と目があった。
それは先ほどまでとは異なり、明確に両者がその存在を視界に認識した感覚。
アルーナから離れたためその姿隠しの魔法の範囲から出てしまったのだろう。
しかし、一連の現象は男の眼にはどう映っていたのか。
雷鳴の中、声が響いたかと思えば、どこからともなく自身に向かってくる男が現れた、そう考えれば多少は動揺もしてしまいそうな状況だ。
雷光は俺たちの頭の高さ程に照準を定めた刃のようであり、間一髪という所ではあったがかがんだ姿勢で何とかそれを潜り抜けることには成功した。
そしてここまで肉薄したわけであるが、姿も見えず、突如として目の前に現れた侵入者に対し男は――
「はっ! やっぱ冴えてんなぁ、俺は!」
不敵に笑っていた。
そこには驚きなど微塵もなく、むしろ俺がそこにいる、ということが嬉しくてたまらない、とでもいうような表情を浮かべていた。
「てめぇが侵入者だろ? 見ねぇ顔だからな」
にやり、とその口角を吊り上げながらかがんだままの姿勢の俺を見下ろす。
ヴァンデルハミッシュの笑みを貴族が道化師を笑う時のような、ある種の『上下』の差から齎されるものであるとするならば。
その笑みは得物を見つけた狩人の如く、『強弱』のもとに創られるものだと、そう感じた。
無論、男にとって『強』とは己のことであり、『弱』とは目の前に現れた俺のことである。
「もし違ったら――まぁ、そんときは運がなかったな」
前方に掲げたままの掌を眼下の俺へと向ける。
小さな子供の頭でも撫でるような、そんな動作であるがそこから何がもたらされるかは想像する必要もない。
「pesante!」
瞬きの間に雷光が振り注がれようとした瞬間、背後から響いた声が空気の波を伴って飛んできた。
「っ!?」
詠唱と共に放たれた眼には見えない風の刃を男はその手で受け止める。
それが背後のアルーナによるものであり、彼女の無事を察する。
「うぉおおお!!」
しかし背後を振り返っている暇はない。
絶体絶命、ともいえるような状況の中何とか掴みかけたこの好機に俺は低く構えた姿勢のまま目の前の男の腰に向かって全身の力を込めて飛び込んだ。




