世界に満ちるもの-Side:M-
「見られているって……どういうことだよ」
アルーナに腕を掴まれながらそう尋ねる俺の声は無意識に小さなものとなっていた。
別にそうする必要などないのだが、アルーナの表情とその言葉が気にかかり、つい何かから隠れてでもいるかのように声を潜めてしまった。
「いずれおわかりになります。ただ今はここにいてください」
掴んでいた手を離しながら、それでも言葉で俺を制すアルーナ。
先ほどまでの焦燥感にも似たはやる気持ちもその言葉に押し留められるように少しずつ小さくなっていく。
無論、ヘルマを探しにいくということは今の俺にとって最優先事項であることに変わりはないのだが、それと同時にここはアルーナの言葉に従った方がいい、という冷静な自分もいるのだった。
「すみません」
ちらっ、と消失した天井から見える青い空を見てアルーナは短くそう言った。
それは何に対しての謝罪だったのか。
ヘルマを探しにいこうとするのを止めたことに対してか。
あるいは傷ついた俺に対してか。
「やめてくれよ。もとはと言えば俺のせいだろ?」
きっとそれは両方に対してのものなのだろうと感じ俺は首を振ってそれを否定する。
これはアルーナを慰めるためなどではなく、本心だ。
ヘルマがいなくなったことも、俺が傷ついたことはもちろん。
アルーナの部屋がめちゃくちゃになり、そしてアルーナ自身を傷つけてしまったことも全ては元を辿れば俺の責任である。
庇ってもらえたのは俺たちの方であり、アルーナからの謝罪を受けることはできなかった。
「アルーナは大丈夫なのか?」
むしろ俺が気になっているのはこちらの方であり、本の残骸が散乱する床にしゃがみ込みながらそう尋ねた。
それは彼女の身体のことと、その立場のこと。
あの男――『白鯨』ヴァンデルハミッシュには全てを見られていた。
アルーナが俺たちと話をしていたこと、そして俺たちを庇って立ち上がったこと。
俺とヘルマは不審な闖入者であり、そもそもからして罪人と言えるだろう。
しかしアルーナはこの王国に属する人間であり、今は裏切り者と判断されてもおかしくはない。
彼女がこれまで培ってきた立場や居場所を奪ってしまったのは俺であり、そのことを謝罪しなければならない。
「ええ、私は大丈夫です」
アルーナはゆっくりと床に座りながらそう答えた。
大丈夫――とは果たして。
「確かに私の一族はこの国に仕えていました。決してこの国に関わる全てを恨んでいるわけではありませんがそれでも、もしも本当に祖父や父の言葉が本当ならば私はこの国を敵に回してもいいと思っています」
俺の考えなどお見通しなのか、まっすぐ目の前の空間を見つめながらアルーナははっきりとそう言った。
「この国が仕えるべき国であるのかどうか、それを見極めたいと思います」
これまでの立場などを失っても構いはしない、というそんな決意を込めた言葉だった。
「そう……か」
それに俺はうまく返す言葉が見つからず、ぽつりと呟くだけしかできない。
「いかがされましたか?」
「いや……あんたはすごいな、と思ってな。何ていうかそういう覚悟を決められるのはさ」
不思議そうにそう尋ねられ、そう返す。
皮肉や何かではなく、本当にそう思った。
自分は勇者であるのかそうでないのか、などということで悩んでいた自分が恥ずかしくなるような覚悟を既にアルーナは持っていたというのだから。
「……そういえばまだ貴方のことはしっかりと聞いていませんでしたね」
その時の俺はどんな表情をしていたのだろうか。
暗く落ち込んでいたのか、悲し気な顔でもしていたのか、アルーナは話題を切り替えるようにそう切り出した。
「俺のこと?」
「はい、ヘルマさんとここへ忍び込んだ経緯は聞きましたが、貴方自身のことはまだ聞いていなかったかと」
突然そう聞かれ少し戸惑ってしまったがアルーナはこくり、と頷きながら俺を見つめてきた。
そういえばそうだったか。
色々と複雑ともいえるアルーナの過去を聞いた後では俺の歴史など何とも薄っぺらいもののような気がしてしまうが、しかし話を逸らして語らない程口を噤みたくなるようなものでもない。
「あんまり大した話じゃないんだけどな……」
こういって始まる話は大抵本当に大した話ではない、というのが俺の経験であったがまさに今回もそうなってしまいそうだ。
しかし話すとなってはどこから話そうか。
せっかくならしっかりと伝えられるように整理しようと頭の中で己の過去を振り返っていると――
―――――――――――ッ
空気が揺れた。
揺れて、冷えた。
否、冷えたのではなく静まったのか。
あるいは――爆発直前の物体のように急速に収束でもしたかのような感覚。
別に先ほどまで誰が騒いでいたわけでもないが、一瞬にして世界全体から音というものが消えたような、そんな錯覚を覚える程に静けさが満ちた。
「っ……」
ちらっ、と横を見ると先ほどまでと打って変わってアルーナは眉間に皺を寄せながらその視線を空へと向けていた。
何か恐るべきものを畏怖するように、何か尊いものを敬うように身動き一つとらない。
「……」
その横で俺は周囲を軽く見まわす。
何が起きたのかなどはわからない。
それでも何かが起きている、あるいは何かが起きる、ということぐらいはわかる。
またヴァンデルハミッシュのように何者かがやってきたのか、と周囲に警戒を張るがしかし人の気配などは特に感じない。
「どうかお静かに」
そんな俺にアルーナは短くそう言った。
それは一体、
そう俺が尋ねようとした時――
―――――――――――――ッ
空が明るくなった。
否、
空は元より明るかったのではないだろうか。
日は高く俺たちを照らしていたはずだ。
それは間違いない。
間違いないのだが、それでも尚、それよりも尚、輝くものが世界を照らし光が降り注いでいたのだ。
――――――――――変わりはないか、皆の者
そして静かな声が一つ、光のように距離を超え俺のもとへと届いた。




