白鯨
「はははははっ」
実に愉快そうに男は笑いながら口角を吊り上げながらパンパンと手を叩く。
人を馬鹿にしたような口ぶりとも取られるであろう行動だが男の表情や声色は不思議とそういったものを感じさせないものであった。
純白の衣服には汚れ一つなく、それだけでもこの人物の身分というものが推し量れるようでもあり、つまりはそういった“位”とでもいうべきものがその言葉から厭味ったらしい要素を取り除いているのかもしれない。
「はははははっ、しかし敵地のど真ん中で随分と余裕すぎるんじゃあないのかな?」
俺たちを見ながらそう言う男は変わらず笑みを浮かべたままだ。
その言葉や表情にはしかし相手を蔑むような色はなく、本心から愉快なものを見て楽しんでいるという風である。
「『白鯨』……」
そしてそれとは対照的に、共に立ち上がったアルーナは男を見て苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
そういった表情は出会ってから初めてみるようで新鮮な気もしたが、一方で今の状況と彼女がこういう表情を浮かべることの意味は朧気ながら理解もしていた。
「はははははっ」
アルーナの表情は恐怖や怯えといったものではないが、友好を示すものでもない。
しかしそんな顔を向けられて尚、『白鯨』と呼ばれた男はその笑みを崩さない。
「その名で呼んでくれるな。他人が付けたつまらん渾名だ。どうせなら敬意を以って名を呼ぶといい」
「それは……御名前を呼ぶことこそ無礼と思っておりましたので、ヴァンデルハミッシュ侯」
お願い、というよりも命令に近いような言葉を受けながら、慎重に言葉を選ぶようにしてアルーナはそれに従う。
その姿にヴァンデルハミッシュと呼ばれた男は『はははははっ』と快活に笑うのみだった。
「……」
俺とヘルマは動けない。
鋼のゴーレムのように無機質なわけでもなく、地下で出会った兵士たちのように血気盛んなわけでもなく、突如として現れた男は世間話でもしに来たかのような態度であるが俺は一瞬たりとも目を逸らすことが出来なかった。
それは男が言う通りここが敵地のど真ん中であり、男が恐らくは王国側の人間であるから、という論理的な話ではなく――
ただ、笑みを浮かべた男からまっすぐに向けられた殺意がそうさせるのだ。
それは隠し切れない程の殺意などではなく、元から隠すつもりもないものであるように俺には感じられた。
「で?」
張り詰めた緊張を感じているのはしかし俺たちだけなのだろう、ヴァンデルハミッシュは笑みを崩さぬままアルーナに問いかけた。
短い、というよりも一言の問いであったがそれが何を問うているかはよくわかる。
そしてその答え如何によってどういうことが起こるのかも。
「……」
しかし、その問いにアルーナは沈黙を以って返す。
王国の人間である彼女が俺たちと共にいること、それについて弁明ができるとすれば今この時だっただろう。
それでも、彼女はそうはしなかった。
それは出会ってまだ間もないにも関わらず俺たちを庇おうとしてくれてのものなのか、
あるいは――
「はっ」
あるいは――
「ははははははははははははははっ!」
弁明など何の意味もない、と知っているからなのか。
「っ!」
ヴァンデルハミッシュが高らかに嗤う。
道化を眺めるように、遊戯を楽しむように、悦に浸るように。
その哄笑の意味は理解できかねたがしかしお陰で身体は動くことができ、間一髪でアルーナをこちらに引き寄せることに間に合った。
パァァァァァン!!
木片が炸裂する。
部屋の中央、今しがた3人で囲っていた小さな円卓が粉々に弾けた。
否、弾けたというよりも上から何かで叩き割られたように破壊されたのだ。
一瞬のことで捉えることはできなかったがよく見ればヴァンデルハミッシュの立つ位置からその円卓まで続く床板も割れており、その破壊の爪痕が残っていた。
その延長線上にはアルーナがいて、今こちらに引き寄せるのが僅かでも遅れていたら飛び散っていたのは木片だけではなかったかもしれない。
割れた卓を挟んだ反対側でヘルマは目を丸くしているが怪我などをしている様子もない。
「はははははっ」
そんな破壊の根本に立ち、しかし今起きたことなどまるで児戯の一つであるかのようにヴァンデルハミッシュは笑う。
「……何のつもりだよ」
その姿に俺は口を開く。
間一髪、という瞬間を乗り越え心臓は早鐘を打っていたが反ってそれが先ほどまでの締め付けられるような緊張感から俺を開放し、そう口を動かすことが出来た。
「ん?」
攻撃――と思われるものからアルーナを救い出した俺から真っすぐに視線を向けられヴァンデルハミッシュは眉を少し上げ問いの続きを促すような表情を浮かべる。
「アルーナはあんたの仲間だろ!?」
真っすぐに目を逸らさずにそう問いただす。
今の一撃、それが何なのかは見ることはできなかったがそれは明らかにアルーナを狙っていた。
ヴァンデルハミッシュとアルーナの関係はわからない。
しかし話を聞いている限りではアルーナはヴァンデルハミッシュを知っているようであり、アルーナが王国側の人間であることは明らかだ。
となれば不審なのは俺とヘルマの2人であり、狙われるべきは俺たちのはずである。
にも関わらずその凶刃は迷いなくアルーナへと向けられ、俺はそれを正さずにはいられなかった。
「んん?」
そんな俺の問いにヴァンデルハミッシュは少し怪訝そうな顔を浮かべる。
しかしそれでもその顔の笑みはなくなりはしない。
「はははははっ、何のことかと思えば、最初に警告したつもりだったが?」
ふわり、とヴァンデルハミッシュが纏うマントが風に揺れる。
「“敵地のど真ん中で随分と余裕だな”と。いや、彼女に向けても言っていたつもりなのだがなぁ」
マントが揺れる。
揺れながら――それがゆっくりと立ち上る。
糸でつられたように、それ自体が生き物であるかのように、純白のマントが剣を振り上げているかのように上へと昇る。
「賊と共にいるというのであれば見過ごせんが、まぁ釈明は聞いてもいい。聞いても良いので生きていてくれよ?」
はははははっ、と高らかな笑いが響く中、白いマントが振り下ろされる。




