出航
「これに乗っていくわけか」
『そう言うことだ』
ぼんやりとそう呟くと少し愉快そうな感情が込められた声が返ってきたので背後を振り返る。
既に日は落ち、夕方という時間も超えて暗い夜の時間となった頃。
頼りとなるのは手に持った松明に灯る小さな火の光だけであるがそれでもそこに誰がいるのかははっきりとわかる。
『感想はあるかな?』
表情も何もないただ一冊の本にしか見えない男――ミールが興味深げにそう聞いてくるのをそれを持つ老人――オルディンは目を瞑って聞いている。
「まぁとりあえず――でっかいってことかな」
何か面白い反応でも期待をしていたのかもしれないが生憎とそれに応えられるような気の利いたことは言えず、顔を前方に戻したところでただ見たありのままの感想しか言うことはできなかった。
それほどまでに、それは巨大な船だった。
「でっかいねぇ」
隣で同じようにそれを見上げる少女――ヘルマもぽかんと口を開けた表情である。
周囲は既に暗く、光源は少ない。
俺が持つ松明以外に明りと言えばそれこそ遥か空にある月の光ぐらいのものである。
しかし暗い闇が限られた光で照らされぼんやりとその輪郭だけが見えるからこそその船は尚更巨大に見えたのだった。
港に泊められ漁や何かに使われるようなそんな船を何倍にも大きくしたその船には至るところに装飾が施されていることが輪郭からもわかる。
何人、何十人――或いは何百人という人間が乗ることを想定して造られたであろう巨大船が夜の海に悠然と浮かんでいるのを俺たちはただぼんやりと眺めているのだった。
”『では出発だ』”
ミールのその言葉で意識が戻ったのはつい先刻のこと。
あの時、オルディンの部屋でミールから俺たちの処遇や“大遠征”についての話が終わった後、俺とヘルマはそのままその部屋で眠りについた。
昨晩から続く騒動による疲労は自分の想像以上のものでありまるで灯火が吹き消されたかのように一切抵抗することもなく気が付けば深い眠りに落ちておりおそらくミールに再び呼びかけられなければいつまでそうしていたかもわからない。
何しろ丸一日は寝ていたというのだから。
声に目を開けると既に一日日は回り、既に暗い色に染まっていた。
俺たちがあまりにも起きる様子もなくそうしていたものだからミールも声をかけるのは躊躇っていたというが刻限が迫っているということで仕方なく目覚めさせた、というのが事の次第らしい。
だがそんな疲労していた頭でも不思議とミールの言葉のその意味は直ぐに理解をすることができた。
出発。
それが何の話であるかはわかっていたのでそんな言葉に起こされたにもかかわらず頭は至って冷静であった。
ただ――驚いたことがあるとすれば
「で……本当に行くのか?」
「はい」
視線を船に向けたままあえて声だけでそう尋ねるとそれにはあっさりとそんな答えが返ってきた。
何となくわかってはいたもののはっきりとそう言われて小さくため息をつきながら横を見る。
「ここにいる限りわからない多くのこともこれから行く先でならわかるかもしれませんから。ご一緒します」
俺が言いたいことがわかるのか先にそう己の思いを語るのは金の髪を夜の風に揺らす女性――アルーナだった。
「そうか」
目覚めた俺が驚きを覚えたことの一つ、それがアルーナの存在とその申し出だった。
”私もお二人に同行します。”
ラグナとの闘いやその後の裁判などですっかりと頭から抜けてしまっていたアルーナがミールと共に現れたと思えばいきなりそんなことを言い出したときには流石に面食らってしまった。
「いずれにしても私も侵入者と共にいた、という認識はされていますから。ここに残るよりも自由はありそうですし」
「……まぁあんたがそういうならいいけどさ」
ここに来るまでに少し話はしたがどうやら俺たちが流刑という名目の下、これからどこともわからない場所に行くということは全て承知の上での申し出らしくその決意は今更変えることができないようだった。
故にこれは驚いたことでもあるが同時納得ができたことでもあった。
――ただもう一つ、驚きを隠せなかったのは。
「セイプルはこういうの乗ったことあるの?」
「こ、こんな大きな船……乗ったことなんてっ」
「ふーん」
今ヘルマと話をしているセイプルなる少女までもが一緒についてくる、ということだった。
”ぼ、僕も……一緒に……”
目覚めた俺たちがアルーナと共に用意された船へと向かおうとしたところ、部屋の前にいた小さな子供が震える声でそう言ってきた。
少年とも少女とも見えそうな小さなその子供がセイプルという名前であること、少女であること、そしてどうやら俺たちとはぐれたヘルマを介抱してくれた人物であることは嬉しそうにセイプルに抱き着いたヘルマがそう教えてくれた。
“わーい!”
などとセイプルの言葉にヘルマは嬉しそうにそんなことを言っていたが流石にそれは俺に決められることではなく、何より何故そんなことを言ってくるのかが初めて出会った俺には理解することができなかった。
だが聞くところによるとどうやらセイプルはヘルマと共に何やら騒動を起こしていたようであり、その為に自らが所属していた組織に居場所がなくなってしまったようだ。
それがどうして俺たちに着いて来るということになるのかはたどたどしい口調で説明をされたが要するに行く先がなく一人きり、ということらしい。
本来ならばそれでも連れていくということをしていい立場ではないのかもしれないが、ではセイプルをどうすればいいのかと言われても困ってしまい結局ここまで連れてきてしまったというわけだ。
「それじゃあ俺たち四人、今から島流しってことでいいのか?」
「いいのではないか?」
「……申し訳ありません。オルディン様」
仕方なしとばかりにそう言う俺に何とも適当に聞こえる口調で答えたオルディンにアルーナはそう詫びた。
申し訳ない、その言葉にどういった思いがどれだけ込められていたかは俺には推し量ることはできなかったがオルディンはそれには小さく頭を振るだけだった。
「やめろ。謝られたところで儂が何かをするわけでもない。それに――知りたいものがあるのなら、お前がその目で見て確かめてこい。ブルームならそうしていただろう」
「……はい」
ブルームとはアルーナの祖父の名だったか、オルディンとその人物との間にどういった繋がりがあったのかまではわからないがアルーナはその言葉にどこか安堵したような表情でもう一度だけ頭を下げた。
『さて、各位話が盛り上がっているところ恐縮だがそろそろ出発の時間だ』
「時間?」
暗い闇の中、近くにいる相手の表情くらいしかはっきりと見えることもできない中で言葉を交わしていた各々だったがミールのその言葉に全員の意識がオルディンの手元に向く。
『少なくとも君たちは表向きは罪人として明日の早朝に船に乗せられ流刑地に運ばれる予定となっているからな、この船に乗ってここを去るということはあくまでも秘密裏のことだ。いいかな?』
「は、はい……」
「なるほどなるほど」
静まった周囲に向けて説教のように始まったミールの言葉に頷きながら耳を傾けるセイプルとヘルマ。
『だが実際にこれから君たちに行ってもらうことになる場所は限られたものだけが入れる場所でな。当然罪人が乗るような船では入港も叶わない。そこで――』
「このどでかい船ってわけか」
『どでかい、とは随分雑な言い方だな。王室の印も刻まれた船だ。本来ならここにいる誰も乗ることなどできないものだぞ』
「そ、そんな船……つ、使っていいんですか?」
『心配することはない。これでも人事室の室長だ。この程度のことはいくらでも処理ができる』
少し過剰な驚きを見せるセイプルにミールはどこか誇らしげに聞こえる口調でそう答える。
人事室、というのがどれほどの立場なのかは知らないがこれほどの船を用意するのはとても簡単なことではないだろうにそれを何でもないことのように言ってのけ、そしてやってのけるのは確かにこのミールという人物の成せる業なのかもしれない。
『そういうわけで各位、名残惜しくもあるだろうがそろそろ出発の時間というわけだ』
「じゃあ一番!」
「へ、ヘルマちゃんっ……走ったら危ないっ……」
ミールのその言葉を合図としたかのように船から伸びる足場に飛び乗って小走りで駆け出したヘルマをセイプルが慌てて後を追う。
これから先のことなど何ら不安にも思っていない様子だが反ってそれぐらいの方がいいのかもしれない、とその姿に思わないわけでもない。
「では」
「ああ」
そしてそれに続くようにして一歩踏み出したアルーナをオルディンは短く送る。
「俺も行くか」
アルーナの姿が船の中へと消えたのを見送ってから俺も小さく呟きながら足を前へと進めたところ、
『……すまないな』
ミールの言葉に思わずその足を止めてしまった。
『今更と思うかもしれないが君たちには私の使い走りのようなことをさせてしまって申し訳ないとは心から思っている』
「何だよ改まって」
暗い夜に吹く風が波を小さく揺らす音が周囲に響く中、ミールの言葉はそれでもはっきりと耳に届いた。
『だが君たちになら頼めると思っていることも真実であり、そして何よりこのままここにいても君たちにどれだけ自由な生活が待っているかは保証はない。故にこそ……』
「やめてくれよ。自分が罪人っていうことは別に俺だって否定はしない。それにどうせここにいてもやらなきゃいけないことがあるわけじゃないしな。それならあんたの考えも一理あるなって思っただけだ」
『……そう言ってくれるのであれば助かる』
どうもミールらしくない改まったその神妙な言葉に俺は少し戸惑いを覚えながらも答える。
それは決して偽りではない俺の思い。
やれることがあるのならそれをやってみる、思えばそんな考えでヘルマを手伝ったことから全ては始まったのかもしれない。
ならばそういった思いに従って生きてみるのもいいのかもしれない、と今ふと思ったのだった。
――だがそれにしても一つ、俺ははっきりと聞いていないことがある。
「たださ、俺結局自分がどこに行って何をするのかちゃんと聞いてない気がするんだけど……」
『ん? ああ、それについては君は気にする必要はない。既に説明はしてあるからな』
「?」
「メルクー!」
『さぁ、行くといい。時間のようだ』
聞きたかったことの答えはぼんやりと濁されたような気もするが船の甲板から声をかけてくるヘルマに小さく手を振って応える。
「じゃ、行ってくるよ」
『ああ、行ってこい』
投げかけられた言葉にはもう振り返ることはせず、俺は夜の海に浮かぶ船へと進む。
――これを以って、メルク・ウインドは罪人としての一歩を踏み出した。
勇者を目指していたはずの男がその力に相応しい肩書きを得た。
それが妙におかしくて少し顔に笑みを浮かべているのを感じながら俺は暗い船へと乗り込んだ。
長くなりましたがこれにて王都の簒奪者編完結です。
引き続き次の章となりますのでどうぞよろしくお願いいたします。




