ヘビ花火が終わる頃
つま先を少したてた。
母さんとよく似たご婦人の肩越しに、一歩ずつ進む列の最前を見る。ぱらりぱらりと、不揃いに頭を垂れる人の流れを楽しんでいるかのように、顔をクシャクシャにして笑うユリちゃんの写真がこっちを向いていた。
焼香台は三つ。運よく親族席に近い右側が空き、そそくさと間を詰めると、付け焼刃の作法で手を合わせる。ユリちゃんに、今にも『下手くそだなぁ』と言われやしないかと、どきどきしながら最後の一礼を済ませた。
親族席の先頭に、喪主の彰さんが居た。席を立ち、焼香を終えた参列者に丁寧に挨拶をする姿は、いつもと変わらないようにも見える。私に気付くと、少し驚いた表情を見せたのも束の間、すぐに目じりのしわを一本増やしてくれた。
「来てくださったんですね。ありがとうございます、笹原さん」
会釈と同時に、優しい香りが鼻をつく。
古びたタンスの匂いをまとう自分が、途端に恥ずかしくなった。
* * *
ユリちゃんが来た日のことは今でもよく覚えている。
どしゃ降りの午後だった。市街地から車で二十分のところにある老人ホーム【ひなたの里】に、木崎親子はやってきた。息子の彰さんに車いすを押してもらいながら、ユリちゃんは、濡れてしまった服など気にも留めず、元気よく挨拶をしてくれた。その手に大事そうに抱えた綺麗な菓子箱と、遠足前の子供みたいな笑顔が目を惹いた――。
「すみません、笹原さん。せっかくのお休みなのに……」
「いえ。私がこうしたかったんです」申し訳なさそうに言う彰さんに食い気味の返事をしながら、勢いよく段ボールにガムテープを走らせた。「職員は故人様の部屋を片付けられないので――今は、木崎さんの友人です」
【ひなたの里】に相部屋は無い。一人ひとりに提供される六畳一間を、皆、思い思いに仕上げていく。ユリちゃんも例外ではなく、モノがあふれた部屋は騒がしい感じがした。
作業を始めて一時間。最後の段ボールを詰め終えた彰さんは、まくっていた袖を元に戻してボタンをかけた。
「本当に助かりました。正直、僕だけじゃ気が遠くなりそうだったので、お手伝いの申し出が有難かったです」
やわらかい笑顔を向けてくれた彰さんに、私はようやく肩の力を少し抜いた。
「こちらこそワガママを許していただきありがとうございました。ユリちゃ――木崎さんは、私が初めて担当させていただいた方だったので、まだ信じられなくて……」
「笹原さんに担当になってもらえて、母は幸せ者ですよ」
「……そう、でしょうか……」
最後の箱にガムテープを貼りかけて、ふと思い出したそれに手がとまった。
「……あの日記、棺に入れたんですね」
三日前のユリちゃんのお葬式で、綺麗な菓子箱がいくつも棺に納められていた。その中身を私は知っている。
「やっぱり気付いていましたか」彰さんは開きかけた箱の口をそろえてつぶやく。「ああするように、母に言われていたんです」
何よりも大事そうにしていた菓子箱の中身を、ユリちゃんは意外とあっさり見せてくれた。
全部で七個。似た大きさの菓子箱には、いろんな種類の便箋が無造作に詰まっていた。
『これは日記なんだよぉ。一日一枚だぁ。書いて、この箱に入れるんだぁ。もうすぐ、この箱もいっぱいだぁ』
間延びした少し低い声で、嬉しそうに話す姿は忘れられない。便箋からはみ出す毎日にしたいと、いつも口癖のように言っては私を捕まえて、散歩へ行きたいとおねだりしてきた。時々無茶なお願いもあったけれど、一日の終わりに便箋をちぎり、筆ペンを走らせ、その日の思い出話に一緒に花を咲かせる時間はとても楽しかった。
そんなユリちゃんは、もういない。
女学生のような日々は、半年足らずで終わってしまった。
「ずっと書き続けていた大切な日記ですもんね。……すみません。なんだかもったいない気がして……」
「いや、分かりますよ。僕も同じこと思いましたし、あの手紙作りに協力してくださった笹原さんなら尚更でしょう」
手紙、という言葉に、私は顔をあげた。中途半端にひっついたガムテープがよじれた。
「あれは日記だと、ご本人から伺いました……けど?」
「ええ、日記ですよ。でも便箋に書いているから、手紙です」
眉間にしわを寄せる私に、彰さんは、なぞなぞを出したお父さんのようにふふっと笑う。からかわれているとは思いたくないけれど、自分が聞いたユリちゃんの言葉が「違う」と言われたみたいで納得がいかない。
「ねえ、笹原さん」
彰さんはテープを直しながら問いかけた。少し砕かれた口調は、どことなく嬉しそうにも聞こえる。
「良かったら、このあとお茶でもどうですか? 今日のお礼もしたいし、母が、どうしてあの日記を始めたのか気になるでしょう?」
綺麗になったガムテープをなでて、彰さんは私の返事を待った。突然の申し出に、私はしばらく目を丸めていたが、やがて試すような口調でつぶやいた。
「それじゃ、あの一筆箋は……宛名だったんですね」
今度は彰さんが目を丸くする番だった。そしてゆっくりと時間をかけて、目じりと眉間にしわをこしらえた笑顔を浮かべた。
「あなたが担当で本当によかった」彰さんは段ボールを抱えて立ち上がり、廊下に止めていた台車へ乗せた。「全部お話しますよ。この話が出来るのは、もう笹原さんしかいませんから」
彰さんを先に駐車場へ向かわせて、私も敷居をまたいだ。
ぽっかりした部屋は、窓から差し込む光ににじむ。
深々と部屋に一礼して、『木崎百合子』の表札を外した。
「あれはね、燃やすためにずっと書き続けた手紙だったんです」
珈琲をひとくち飲んで、彰さんはしんみりと言った。
駅からほど近い喫茶店は最近出来たばかりらしく、可愛らしい店内には女性しかいない。けれど彰さんは特に戸惑う様子もなく、むしろ普段のしなやかな立ち居振る舞いもあって、店によく溶けこんで見えた。
「僕が母のおなかにいると分かった時から書き始めたらしいので、もうかれこれ四十年近くになっていたんですね」
そりゃあ菓子箱も増えるよね、と彰さんは笑う。
私はようやく砂糖を溶かし終えた紅茶をひとくち含んだ。
「どうして、あの一筆箋が宛名だって分かったんですか?」
トリックの答え合わせをするように、彰さんはにこやかに訊ねた。
ユリちゃんのお葬式で目にした七個の菓子箱には、数日前までは無かった一筆箋が、引きちぎったセロテープで貼られていたのだ。
私は少し視線を泳がせてから、ぽそぽそと応じた。
「読めなかったんですけど、形がどれも似ていたので、きっと同じことが書いてあると……思ったんです」
いつも筆ペンで日記を書いていたユリちゃんは達筆だった。だけど、棺の中で初めてみた一筆箋の文字は頼りなくて、時々インク溜まりが出来て、二度書きしたように折り返して、最後は尻すぼむ。まるで乳飲み子が書いたような文字からは、ペンを持つのもやっとだったことが容易にうかがえた。
思い出して肩に力が入った。彰さんは「なるほど」と小さくうなずいて、カバンから何かを取り出した。うつ向き気味になっていた私の視界に入るように、机に置いたそれをそっと滑らせた。
厚みのある風呂敷包みだった。随分年季が入ったものらしく、ほつれやシミがいくつか見える。
首を傾げる私に、彰さんは包みを開けるよう促した。遠慮がちに結び目をほどくと、中にはうっすら茶色を帯びた紙きれが綴紐でまとめられていた。
「これは、母の母――僕の祖母が、母へ宛てた手紙です」
ぱらぱらとめくっただけでもわかる。どの紙きれにも、日付と天気、気温から始まり、朝食の内容やその日に会った人の名前が、一日をたどるように書きこまれていた。
これはまるで――
「日記でしょ、どう見ても。母が、祖母のおなかにいると分かってから書かれたものなんです」
思わず顔を上げると、彰さんは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、ユリちゃんは……」
「これの、返事を書いていたんですよ。何十年もかけて」
彰さんは珈琲を飲み干して語り始めた。
「病弱だった祖母は、母を生めば命を落とすと言われていたようです。それでも生むと言い張って、日記を付け始めました。もしかしたら、我が子と一緒に過ごせる時間は今しかないと思っていたのかもしれません。そして産気づく直前に、表紙の――宛名をしたためて綴じたんです」
そこであっけなく、話は終わった。
私は失礼して、製本された日記を一枚一枚めくった。九月半ばから始まった日記はとても粒だった字で、短歌や俳句を交えながら書かれている。悲観的な文言はひとつもなく、これから生まれてくる我が子の代弁でもするかのように、ただ純粋な感覚と、見たままの景色がそこにはあった。
二カ月が過ぎる頃には、日記は目を凝らしてやっと読めるものに変わった。あんなに整っていた字が乱れ、一文が蛇行するようになっていた。行間には墨のシミがはしごをかけ、激減した漢字は半分潰れていたが、内容は少しも曇っていなかった。
そして十二月一日を最後に日記は終わった。
ユリちゃんの誕生日は――十二月二日だ。
「……本当に、直前まで書かれたんですね」
最初と最後の日付を見比べながら、私は小さく呻いた。表紙の、かすれて伸びた墨溜まりが『ユリコヘ』と書いてあるとは想像もしていなかった。
「祖母の死後、日記は忘れられていました。祖父も、母を育てることに必死だったでしょうから」
引越しのどさくさに紛れて日記が出てきたのは、それから十五年後のこと。
ユリちゃんは表紙の文字を見るなり、こう言ったという。
『ヘビ花火だ!』
その後、父親からすべてを聞いたユリちゃんは、いつか子供を身籠ったら、同じように日記を書くと決めたそうだ。そして出産を無事に終えてからは、あちこちに彰さんを連れ回し、亡き母親とも出かけたかったと思いを馳せて、ますます筆を走らせたらしい。
彰さんはユリちゃんとの思い出話を聞かせてくれた。一緒に日記を書こう、と便箋を渡されたとか、母の日に感謝の手紙を書けば『まだ最初の人へ返事を出していないから』と言って、封筒を開いてもくれなかったとか。
聞けば聞くほど、ユリちゃんの傍らには常に日記の存在があったのだと、改めて思う。
「長年書き続けていたのを見ていましたから、それを燃やせと言われた時は、母の考えが理解出来ませんでした。ヘビ花火が終わったその先を、母が知らないはずは無いのに、まねるように一筆箋まで用意して……」
やっぱり祖母が恋しかったんでしょうかね、と肩をすくめる彰さんから視線を落として、私は手元の黒いヘビ花火を眺めながら、ユリちゃんの一筆箋を思い返した。
曲がりくねった文字は、か弱いくせに迫力があって。
時間をかけたことにも気づいていないような、滲みきった紙。
ヘビ花火は、最後の一瞬まで全力で燃えたことだろう。
店内の顔ぶれはすっかり一新していた。ようやく口を開いたのは、彰さんが、黙り込んだ私を心配して声をかけてくれた時だった。
「ユリちゃんは――だったんだと思います」
「え?」
「ヘビ花火が終わったら、お母さんに手紙が渡せるって、楽しみだったんだと思います!」
うわずった。震えた。体の端という端にぎゅっと熱が集まった。
急に静かになった気がして、私は慌ただしく包み直した日記本を返した。彰さんはしばらくキョトンとしていたが、やがて頬をゆるめると風呂敷包みを優しく撫でた。
「正直これ、もう処分するつもりだったんですが――気が変わりました」
風呂敷包みをカバンにしまう彰さんの、ユリちゃんにそっくりの目もとが少し赤みを帯びていた。
「おかげで気持ちの整理がつきました。ありがとうございます、笹原優理子さん――いや」
そしてわざとらしく考えるフリをして、一言。
「ユリちゃん、かな?」
子供みたいに歯を見せて笑う彰さんは、雨上がりのようで。
冷めきった紅茶を一気に飲んでも、頬に広がった熱は引いてくれなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
最後の手紙をテーマに書いたものです。
暗い作品にならないよう、残された側の視点で形にしました。