階上を回る
私が児童であった頃、当時は父も居た。今は二人の妹も長姉しか居ず、母と弟を含めた五人の家族であった。
家族は古い集合住宅の一室、一階の向かって左端に住んで居た。年季が入った其の住宅は立て付けが悪く、寒風や昆虫の出入りを自在に為て居た。衝撃を加えれば開錠為れる玄関の扉が、幼い私の不安を煽り立てた。其処で五人、円満とは云い得ぬが暮らして居た。
家族の階上に母子が住んで居た。眼鏡を掛けた母親と、少年より幼い男児の二人であった。
階上の母子とは確執も無く、顔を合わせれば会釈は為るが、歓談を為るか為ぬか、良くも悪くも純然たる隣人に過ぎなかった。
其の母子は軈て転居為た。其の様子は特別、覚えに無い。
其れからである、階上を駆け回る足音が聞こえ始めたのは。
何時、誰が其の存在を知ったか、其れは定かでは無い。誰とも無く、誰かが言った。
五人が居室で食事を為て居ると、階上から足音が聞こえる。幼い子供の足音よりも軽い其の音が、階上の居室を回って居る。保たれた速度と定まった円周を回り続ける。
五人は其れを認め乍ら、其れを確かめる事も無く、寝室へ向かった。
然う為ると、階上の足音が寝室の上へ付いて来る。確かに彼の足音は居室から寝室へ、走って付いて来た。其処で再び円を描いて走り回るのである。
電燈を落とした宵闇の中、在り得ぬ程に軽量な足音が、古い空室の中を延々と回り続ける。
毎日では無いが、五人は足音を確かに聞き続けた。
彼れは何者であったろうか。
幼い私は興味に負け、或る昼間に階上へ向かった。静かに把手を握ると、扉は抵抗も無く開かれる。
玄関から見遣った室内には薄く塵埃が積もる許りであった。
私が憶えて居る事は其れと、知らずに投函為れたであろう広告が玄関に落ちて在った事、其れ許りである。