月に助けられた男
---月に助けられた男 ---
私は月に助けられたことがある。
こんな事を真顔で言うと狂人扱いされるかも知れない。
だが、あの時の私は
----月に助けられた----と、そう信じていた。
それは今から3年程前の事になる。
その日は確か金曜日で私はいつものように
会社の同僚達と行きつけの店で酒を飲んだ。
飲み屋を出て同僚達と分かれた時には
終電もとっくに無くなっている時刻だった。
私はタクシーを拾おうと思い、大通りに面した歩道を歩いた。
深夜とはいっても繁華街に近いため
いつもなら人通りが多いのだが
その夜はやけに静かだった。
なかなか流しのタクシーがつかまらず
仕方なく遠くに止まっている空車らしきタクシーに向かって私は歩いた。
雨でも降ったのだろうか歩道には大きな水たまりができていて
それが私の行く手を阻んだ。
水たまりの水面には
眩しいくらいに青白い天空の月が映っていた。
「・・・満月か・・・」
私は立ち止まり空を仰いで夜空に冴えわたる月を見た。
それは、時間にするとほんの2,3秒の間だったと思う 。
私は先を急ごうと水たまりを避けて歩き出した。
その時。
あろうことか前方からトラックが走ってきた。
ものすごい勢いで車道から歩道に乗り上げた大型トラックが
歩道を突っ走ってきたのだ。
大型トラックは
けたたましいブレーキ音を立ててギリギリ私の目の前で止まった。
私は反射的に2,3歩後ずさりして尻もちをついた。
危なかった 。
あと数メートル先を歩いていたら
完全にトラックに跳ねられていた 。
もし月に気を取られる事もなく進んでいたら
私は完全に事故に巻き込まれていただろう。
私は立ち上がり足元にあるはずの水たまりを見た 。
だが・・・
そこに水たまりは無かった
水たまりはおろか路面が濡れた形跡さえ無かった。
「・・・」
私は不思議な感覚に襲われ全身に鳥肌が立つのを感じた。
「なんだか神秘的ね。お月さまに助けられたなんて」
家に帰っても興奮は治まらず
私はいきさつを妻に語った。
「とにかく危ないからあまり飲み過ぎないでくださいね」
妻に軽くあしらわれた気がした。
私は月に助けられたなどと
おとぎ話みたいな事を大真面目に語った自分が恥ずかしく思えた。
以来この話は誰にもしていない。
それは、至って懸命な選択だったと思う。
「どうかしたの?あなたぼんやりして」
「いや、何でもないよ」
妻はいそいそとススキやクリや団子などを
花器に生けたり皿に盛り付けたり忙しそうだ。
「お月様にお供えしなくちゃ。今夜は十五夜ですからね」
あんな事があってから妻は十五夜になると
月にお供え物をするようになった。
あながち私の話を酔っぱらいのたわごとと思っていたわけでもなさそうだ。
そんな妻を見て私はあの夜の事を思い出して
しまったのだった。
あれも確か十五夜の頃だったと思う。
「あなたそろそろ時間じゃないかしら」
・・・そうだ。時間だ。
妻の言葉で私は現実に引き戻された。
私にのんびりとノスタルジーに浸る暇等など無かったのだ。
明日は会社の大事な会議がある。
私はその会議のために今夜のうちに本社に入り打ち合わせをして
明日のプレゼン用のレポートを仕上げなければならないのだ。
『・・・今夜は徹夜になりそうだ』
私は再度作りかけのレポートをチェックして鞄に収めた。
「荷物を用意してあるから取ってくるわね」
そう言って妻は隣の部屋に見えなくなった。
十五夜か・・・
まだ明るいから月は出てないだろうな
私はネクタイを締めながらベランダに歩み寄ってガラス越しに空を見上げた。
「いたい!」
何かを踏んだ。足の裏に激痛が走る。
「どうしたの?まあ!大変!」
妻は私の声に驚き駆け寄ってきた。
ベランダの脇にイガの付いた栗が置いてあって
私はそれに気付かず思いっきり踏んでしまったのだ。
「痛い。なんでこんな所に栗なんか置いてあるんだ」
私は足の裏に刺さったウニのように鋭い栗のイガを抜きながら妻にあたった。
「ごめんなさい。十五夜のお供え用にしょうと思って・・・
踏まないように隅っこに置いてたんだけど、・・・大丈夫?」
「ああ、たいした事ないよ。それよりもう行かなくては」
私は立ちあがろうとしたが一歩踏み出しただけで足の裏が酷く痛んだ。
「ダメだ。・・・歩けない」
「中にトゲが残ってるんじゃないかしら
病院で見てもらいましょう。」
私は妻に支えられてタクシーで病院へ行く羽目になった。
これでは今夜の打ち合わせに間に合わない。
明日は私の昇進がかかっている大事な会議があるというのに・・・
ああ・・・私はなんて不運な男だろう。
こんな日にどうしてこんな目に合うんだ。
栗のイガを踏んだなんて恥ずかしくて言い訳にもなりやしない。
そもそも月に助けられたなんて一瞬でも信じた自分が
ばかばかしくて、腹が立ってきた。
十五夜とか満月とかにまつわる日には悪い事が起きる。
トラックに轢かれそうになったり、
家の中で栗のイガを踏んだり
滅多にあり得ない様な災難が降りかかる。
十五夜なんて私にとっては厄日じゃないか。
病院の待合室で私はそんな事を思いながら
自分の不運を嘆くしかなかった。
待合室は混んでいて診察までには時間がかかりそうだった。
スムーズに診察が済んだらもしかしたら打ち合わせに間に合うかもしれないと
淡い期待を寄せたがその可能性は消えた
とにかく本社に連絡しなくてはならない。
待合室を離れて病院内の電話ができる場所まで
妻の手を借りて移動した。
先に本社に到着している永井部長の携帯に電話を入れなくては。
だが、その時、私の携帯が鳴った。
永井部長からだった。
こっちから連絡するべきだったのに・・・
私は気まずい思いで電話に出た。
「おい!中村君か!」
電話の向こうの永井部長に耳が痛くなる程の大声で怒鳴られた。
激怒されるのも無理はない。
もうすぐ打ち合わせが始まるというのに
私がまだ本社に到着していないのだから。
「申し訳ありません。永井部長。今こちらから連絡しょうと・・・」
「中村君!本当に中村君だね!いやぁ良かった」
「・・・は?」
「なんだ?まさか知らないのかね?
君が乗って来るはずの飛行機が墜落したんだよ。
こっちではニュースを聞いて皆大騒ぎしてたんだ。
私は無事を祈りながら君に電話をしたんだが
君が電話に出てくれて安心したよ。
無事で良かった。
あの便に君は乗らなかったんだね。
いやぁ、君は運がいい。
本当に、君は運がいい。
もしもし。
聞いているかね中村君
もしもし・・・」
病院のガラス窓からちょうど満月が覗いていた。
あの夜と同じほのかな青白い月の下で
私は不思議な感覚に襲われ全身に鳥肌が立つのを感じた。
<完>