第二話 百人と一人が殴り合う話
百人の人間が…仮に一太郎から百太郎という名の百人が居たとする。
その百人が零太郎という名の一人ボッチの元に行き、百人全員で殴りかかったとしたら、一体どうなるだろうか?
百人に一発づつ殴られたとしても、百人に襲われたら百発分のダメージを受けることとなる。
零太郎が百人に襲われたらボロゾーキンの様になることは間違い無い。
突然、こんな理不尽な仕打ちを受けたら誰だって相手を憎み、恨むはず。
零太郎が百人に対して同じ様に報復するとしたら、百人に対して百発づつ殴り飛ばして同じ目に合わせ様とするだろう。
それ程の恨みを持つのは当然だと思う。
つまり、報復は百人に対して百発殴り返すこととなり、その数は合計一万発となり得る。
これが零太郎の恨みの数値と言えよう。
被害者である零太郎が一万発の恨みなら、加害者の百人はどう思っているのだろうか?
百人のウチの一人、一太郎の立場で言えば「自分は確かに殴った。でも、たった一発だけですよん」と、答えるだろう。
被害者が一万発の恨みを抱えているにも関わらず、加害者はたった一発だけだと認識している。
この被害者と加害者の意識の齟齬がイジメの本質ではないのかと、ボッチの少年は常日頃から考えていた。
元々は百発であるにも関わらず、被害者は百倍の一万発の恨みを持ち、加害者は逆に百分の一の一発だけだと考えている。
百人と一人でこれだけの差が出るのであれば、数千万とか数億人もの規模の国と国との諍い…即ち戦争でも起きれば、その怨嗟による齟齬は計り知れない物となるだろう。
世界中から戦争やイジメが無くならない理由、それは被害者と加害者の間に「意識の齟齬」が生まれているからに他ならない。
逆に言えば、この「意識の齟齬」を解消することが出来れば世界中から戦争やイジメを撲滅する事が可能なのでは無いだろうか?
その為に必要な行動こそ、百人と一人での殴り合いだと、ボッチの少年は考えていた。
被害者である零太郎が思う様に、加害者の百人に対して、本当に百発づつ殴ったら、加害者側の人間は「一発しか殴ってないのに百発も殴り返しやがって!」と、恨み返す事であろう。
報復が報復を呼び、収拾のつかない怨嗟の渦が、終わりのない愚かな争いを生み出す事に。
では逆に、加害者側の言い分で零太郎が百人に対して一発づつ殴り返す報復をしたとする。
百人は一発殴って一発殴り返される。まあ、仕方のないことだと了承するかも知れない。
でも、零太郎の立場はどうなるのでしょうか?
零太郎はボロゾーキンの様になりました。百発殴られたのだから当たり前です。
それにひきかえ百人は一発殴り返されただけでボロゾーキンの様にはなってはいません。
こんなの零太郎が納得する筈も無く、恨みが収まることもありません。
実際に社会でこの様なことが起きれば、一人である少数派の被害者が泣き寝入りする事が殆どである。
一人の人間が我慢する事で丸く収まる。
被害者が泣き寝入りする事が最も不満を述べる人数が少なくて済み、泣き寝入りこそ最も正しい判断。
これが世の中の不条理なまでの常識。
自分がその不条理な少数派の立場になったら怒る癖に、多数派の加害者の立場だと罪の意識は皆無。
何故ならば、多数派の人間は罪の意識を分散しているからに他ならない。
百人が一人を殴るのと、一人が一人を殴るのでは百人の方がダメージが多いに決まっている。
しかし、実際には百人で殴る方が罪の意識は薄くなる。皆でやっているのだから自分だけが悪いわけでは無いと。百発のウチの、自分はたった一発なのだからと。
故に加害者は多数である程に罪の意識は薄くなり、更には被害が多くなる事への歯止めすら効かなくなる。
その上、被害者は加害者が多い程に泣き寝入りを強いられると、不条理なまでの社会が形成される事に。
イジメの経験のある者ならば、誰もが感じたことのある不条理。
でも、誰もが泣き寝入りをするのが現実。
加害者と被害者、双方が納得する解決策など誰も知らないのだから。
でも、ボッチの少年は考えていた。加害者への恨みからでは無く、純粋に双方が平等になる術を。
被害者である零太郎が加害者の百人に一発づつ殴る。零太郎にとって納得のいかない報復である。
だからこれで終わらせるのはおかしい。
報復として零太郎が百人を殴ったら、今度は百人のウチの一人、一太郎が二太郎〜百太郎までの九十九人を殴る。
その後は二太郎が一太郎と三太郎〜百太郎までの九十九人を殴る。これを全員で繰り返す。
これにより零太郎と百人は百発殴り、百発殴られた事になる。つまりは全員が平等に殴られ殴り返されたことになる。
百人が一人を殴り、一人が百人を殴り返すからこそ生まれる齟齬。
それを百人と一人の殴り合いに…つまり百一人での殴り合いにすることで平等を生み出すのがボッチの少年の考えた打開策。
これなら被害者も納得するだろうし、加害者も殴られる痛みを分かち合うことで暴力を振るう事への抵抗心が芽生える。
他人の痛みを理解出来ない人間が集まり暴力を振るう。
人が集まり多人数になるほどに罪悪感が分散し、益々人の痛みが理解出来なくなる。
これをどうにかしなければならない。
この負の連鎖を止める事の大切さを、ボッチの少年は何処かで吐き出したかった。
それがたまたま見かけた弁論大会の告知に突き動かされて、書き殴る様にして原稿を完成させたのだった。