第一章(1)
「うお!」
「きゃあ!?」
閃光が弾け、ザックとエリファーがそろって悲鳴を上げる。ただ、悲鳴を上げたのは二人だけではなかった。
突如として襲い掛かった自然の猛威に、馬たちは錯乱状態に陥った。雄叫びと共に大きく前足を振り上げ、その場で激しく跳び回る。まるでロデオの暴れ馬だ。
「くっそ、落ち着け!」
ザックはすぐさま手綱を引いたが、混乱した馬は止まらない。前後左右関係なく跳び回る馬は、制御するどころか振り落されないようにしがみ付くだけで精一杯だ。
「しかたねぇなっ!」
後ろ足を大きく蹴り上げ前のめりになる馬に、ザックは舌を打ちながら決断した。右へ左へ、上へ下へ、目まぐるしく入れ替わる視界の中、ザックは一瞬の間隙を見計らって、荒れ狂う馬から飛び降りた。両手で頭部をガードしながら、地面に転がり落下の衝撃を逃がす。土煙が巻き上がる中、ザックは雷とは反対方向へ走り去る愛馬を、ただただ見送るしかなかった。
「ぺっ、ぺっぺ。あ~くそ、ひっで~目にあった。なんなんだよ、いったい!?」
「ちょっと、ちょっと。大丈夫!?」
口の中の砂利を吐き出しながらザックがゆっくりと立ち上がると、エリファーが眉を八の字にして心配そうに馬上から見下ろし――いや、ちょっとまて!
「お前、馬は? 暴れなかったのか!?」
「あっばれた、あばれた。暴れたに決まってるじゃない。危うく、振り落されるとこだったわよ。あ~もう、お尻打ったぁ。いった~いな~、も~」
「なるほど。クッションがあって助かったんだな」
痛そうにお尻を擦るエリファーに、ザックは笑顔を浮かべながら自分の尻をポンと叩く。
1秒後。ザックの顔面に、エリファーのウェスタンブーツのつま先がめり込んだ。
「乙女に対して失礼よ!」
乙女とは、人の顔面に平気で蹴りを入れる女のことだろうか。いや、そんなはずがない。
全力で反論を探しながら、ザックがゆっくりと顔面にめり込んだ足をどける。足を退かす瞬間、ペキ、とか、ミキ、とか何やら不吉な音が聞こえたが、きっと気のせいだ。
横に曲がった鼻を自力で戻しながら、ザックが馬上のエリファーを見上げる。きっとそこには、顔を真っ赤にしてちょっと涙目になっているエリファーがいるはずだった。
「ん?」
結論から言おう。ザックの予想は大外れだった。
ザックが思わず眉を顰める。てっきり怒っていると思ったエリファーは、ひどく無防備な顔をしていた。なんというか、まるで気持ちよく寝ているところをいきなり起こされてぼーっとしているような、そんな顔。あまりに無防備すぎて、少しだけ可愛いと思ってしまった。ザックの一生の不覚だ。
「おい。エリファー、どうした?」
様子がおかしい相棒の様子にザックが慌てて尋ねると、エリファーは呆けた表情のまま、吐息を零すように呟いた。
「桃が……」
「桃?」
意味不明な言動に、いよいよザックは心配になる。もしかして、さっきの雷に打たれたのではないだろうか。だとしたら一大事だ。すぐ街の病院に連れて行かないと。
「おい、落ち着け。桃ってなんだ?」
慌てるあまり少し上ずった声を上げるザックに、エリファーはゆっくりと腕を持ち上げ、ザックの背後を指した。
テニファーの指につられ、ザックがゆっくりと振り返る。
桃だ。そこには、大きな桃があった。
――って、ちがう!
異世界へ逃避しそうになる思考を、ザックは大急ぎで引き戻した。確かに、目の前に出現したそれは瑞々しく柔らかそうだが、断じて桃じゃない。
地面にできた大穴の中心に見えるソレは、大きな桃ではなく、小さなお尻だ。
小さな、おそらく6・7歳ぐらいの少女が、素っ裸で穴の真ん中に倒れていた。金糸のような長い金髪が波のように地面に流れ、小枝のように華奢な手足が放り出されている。
顔つきもまだまだあどけないその少女は、ピクリとも動かない。
「おい……おいっ!」
「ちょっと、大丈夫!?」
ザックが慌てて少女に向けて駆け出し、エリファーも急いで馬から飛び降りる。
そして、ザックが少女の肩に手を触れようとした、次の瞬間。
「ごふぉっ!?」
ザックの視界が反転した。強烈な衝撃が顎を突き抜けると同時に、身体を嫌な浮遊感が襲う。流れる視界の中で、口を手で押さえるエリファーの驚いた顔が見えた。
そう、ザックは今、空を飛んでいた。
それはもう、牧牛に体当たりされたような強烈な一撃だった。
――おれ、今? どうなって!?
短い浮遊感が終わり、ザックの身体が地面に落下する。今度は受け身を取る暇もない。ザックの目の前で、チカチカと星が点滅する。
「ちょっと、ザック。大丈夫?」
駆け寄ってきたエリファーが膝をつき、倒れたザックの上半身を抱え起こす。エリファーの身体が密着し、ふわりと汗とは少し違う甘い香りがザックの鼻を擽った。
「おい」
「何よ」
「胸、あたってんぞ」
「馬鹿ね、あててんのよ」
ザックが小さく笑ってやると、エリファーは安心したように微笑んで……
支えていたザックの上半身から、パッと手を離した。
ゴンッと、頭蓋骨から聞こえてはいけない音がして、再びザックの視界で星が瞬く。
「そんな冗談が言えるなら大丈夫ね」
「あがががが、バカ……野郎。殺す気か?」
「殺したって死なない奴が、なにを」
フンと鼻を鳴らし、エリファーがばい菌でも払うように自分の胸元を手で払う。自分で押し付けておいて、失礼な奴だ。ついでに言えば、「押し付けられるほど大きくもないくせ――
「なんですって!」
「ヤバい、心の声が漏れた」
「やっぱり死んじゃえーっ!」
本日二度目。エリファーのつま先がザックの顔面に突き刺さる。蹴り飛ばされた頭は、またもや固い地面に激突。
「ぐぉぉ~、キいた~。いや、マジで。やばい、もう立ち上がれないかもしれない。すみません、エリファー様。もう一度起こしてください」
「ふざけてないで、さっさと起きなさい!」
――冗談の分からない奴だな、ほんと。
完全に相棒に見放されたザックは、ズキズキと痛む後頭部を擦りながら立ち上がった。
「おお~、いつつつ。つーか、さっきのは何が起こったんだ?」
「殴られたのよ」
「殴られた? 誰に?」
「アレに」
エリファーが眉を顰めながら指先を持ち上げる。
ザックが振り向くと、そこには両手を空高くに突き上げた小さな背中が見えた。エリファーの言葉を信じるなら、ザックを空高く殴り飛ばした犯人はあの小さな拳らしい。
いやいや、そんなことあり得るのだろうか? どう見ても、相手は子供だ。とても、ザックを殴って、あまつさえその身体を浮かせるなんて――
ぐぅ~きゅるるるるるるるる!
空腹を知らせる腹の虫が、盛大に鳴き誇った。
ザックじゃない。エリファーも首を横に振って完全否定。
となれば、その腹の虫の飼い主は……
「おっっっなかスいたーっ!」
キィ――――ン!
天を仰ぎ叫んだ少女の声が、ザックとエリファーの耳をつんざいた。常識はずれの大声に、ザックとエリファーが思わず耳を塞ぐ。
「お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいた、お腹すいたあぁぁぁー」
手足をバタバタと振り回し、謎の少女が訴える。少女はじっとしていられないのか、自分の尻尾を追いかける犬のようにその場で回転し始めた。グルグルととんでもない速度で少女が走り回り、見る見るうちに地面が抉れていく。見てるこっちが目を回しそうだ。
そんなせわしなく走り回っていた少女の動きが、まるで磁石に吸いつけられたかのようにピタリと止まる。少女は何も身に付けていない裸体を隠すこともなく、まっすぐにザックたちの方を向いていた。
くりっと大きな目に、ゼリィーのように柔らかそうなほっぺ。どこか野性味の帯びた口元に、少し低めだが可愛らしい鼻。足元まで届きそうな長い髪と大きな瞳は、まるで雷の色を抜き取ったような金色で魅力的だが、未成熟な身体は男の子か女の子かわからないほどまったいら。
ちょっとアホっぽい感じはするが、誰にでも親しまれそうな少女の口元には、大量の涎が滴っていた。
「お、お肉……」
少女が発した言葉に、ザックとエリファーがたじろぐ。何せ相手は、雷と共に現れた少女だ。もしかしたら、悪魔か何かの類かもしれない。どこか夢見心地で、ザックたちをまっすぐに見てはいない眼は、より一層ザックの不安を駆りたてた。
「エリファー、ちょっと下がれ」
エリファーを庇うように右腕を持ち上げ、ザックは謎の少女を睨みつける。最悪、何とかエリファーだけでも逃がさなくて、牧場のオーナーに合わせる顔がない。
少女の小さな足が、一歩前へ踏み出す。
――来るか?
「牛……」
身構えるザックの耳に、またも少女の声が響く。小さな声で聞き逃しそうになったが、確かに「牛」と呟いた。
ザックが、少女の視線の先を見る。そこには、ザックたちが捕まえたあの暴れ牛がいた。「モォ?」と間抜けな声を上げる辺り、この牛も現状を掴みかねているらしい。
「お肉だー!」
そんなザックたちを置き去りに、少女は歓喜の声を張り上げると、その小さな口をめいっぱいまで開き……
口から一閃の雷を吐き出した。
ザックたちが悲鳴を上げる間もなく、雷は寝転がる牛に激突する。一瞬の閃光の後、辺りに香ばしい匂いが漂った。
ザックたちがやっとの思いで捕まえた暴れ牛は、香り漂う一個の巨大な焼肉になってしまった。
「な、な、な?」
言葉を失うザックの耳に、じゅるりとヨダレを吸う音が響く。振り向くと、少女が口から零れる唾液を飲み込み、それでも口から溢れ出る涎を細い腕で拭っていた。大きな双眸には、なんの幻か骨付き肉のマークになっている。
「いただきマース!」
少女が跳んだ。数メートルはある距離をひとっ跳びした少女は、そのまま自分の何倍もある焼き牛にしがみ付いた。がぶっ、じゅる、ごくんと、肉を噛みきり肉汁を啜り、口いっぱいに頬張った肉を飲み込む音が響く。
「うんっまぁあああああああああああい!」
力いっぱい叫んだ少女は、それから一心不乱に肉をむさぼり始めた。みるみる間に一匹の牛が骨になっていく。明らかに少女の身体より食べた肉の方が多い。だが、そんな常識など軽く無視した少女は、あっという間に牛一頭を完食した。
「けっぷ」
可愛らしいゲップを吐き出した少女は、口元を腕で拭いながら反対の手で大きく膨れたお腹をポンと叩き――
その場でぱたりと仰向けに倒れ、すやすやと寝息を立て始めた。
「なん、なの? この子?」
「さあ、な」
呆気にとられるザックとエリファーの脇を、荒野の乾いた風が吹き抜ける。
ザックとエリファーがようやく岩場を出発したのは、牛が骨になってからしばらく経ってのことだった。