社畜編
深夜二時、オフィスに響くのはキーボードを叩く音と、壊れかけの加湿器が放つ虚しい蒸気の音だけだった。
山田は充血した目でモニターを見つめ、ふと、先日SNSで流れてきた著名な経営者の言葉を思い出した。
「もし君が今、働いているのだとすれば、君は休みの中にいない。そして、休みの中にいないということは、君は働いているということなんだ」
その言葉の圧倒的な「正しさ」に、山田の指は止まった。彼は椅子にもたれかかり、一つの深淵なる結論に達した。
――自分がこのメールを送信しない限り、メールは未送信のままなのだという事実に。
「そうか。送れば、届く。送らなければ、届かない。世界はこれほどまでにシンプルだったのか」
山田が独りごちたその時、背後から音もなく上司の佐藤部長が現れた。部長の目は死んだ魚のように濁っていたが、その口調には不思議な説得力があった。
「山田君、悩んでいるようだね。いいかい、覚えておきなさい。もし君が仕事を終わらせることができれば、その仕事は終わる。しかし、終わらせることができなければ、その仕事は未完のまま君の前に残り続けるんだ。なぜなら、完了した仕事とは、もはや未完了ではない仕事のことだからだよ」
山田はこの言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「部長……では、私はどうすればいいのでしょうか?」
部長は窓の外の暗闇を指差した。
「もし、終電がもう行ってしまったのなら、君は終電に乗ることはできない。しかし、始発がまだ来ていないのであれば、君はまだ始発に乗ることもできない。つまり、君は『今』という時間に、ここにいるということだ。ここにいる限り、君は別の場所にはいない。それが、出社というものの本質なんだよ」
山田の頬を涙が伝った。前へ進むためには、後ろに下がってはいけないのだ。彼は、さらなる高みを目指すべく、会社の地下にある給湯室へと向かった。
そこには「会社の聖者」と呼ばれる、勤続三十年の清掃員がいた。
聖者は茶殻を捨てながら、静かに説いた。
「いいですか。給料をもらっているということは、あなたには収入があるということです。もし給料がゼロであれば、あなたの収入はゼロになるでしょう。不満があるのなら、満足していないということです。そして、満足していない状態というのは、幸せではない状態のことなのです」
山田は問いかけた。「聖者よ、どうすればこの苦しみから逃れられるのでしょうか?」
聖者は優しく微笑んだ。
「辞表を出せば、あなたは退職します。しかし、辞表を出さなければ、あなたは在職し続けます。もし会社を辞めたなら、あなたはもうこの会社の社員ではありません。しかし、辞めない限り、あなたはいつまでも社員なのです。朝が来れば夜は明け、太陽が昇れば明るくなります。そして、明るいということは、暗くないということなのです」
山田はついに、真理の全貌を理解した。
今、目の前にあるキーボードを叩けば、文字が入力される。叩かなければ、画面は白いままだ。
そして、もし明日も会社に来れば、自分は明日も会社にいることになるのだ。
***
翌朝、同僚たちが死相を浮かべて出社してくると、山田は晴れやかな顔でデスクに座っていた。
「みんな、聞いてくれ! 僕は気づいたんだ。もし、残業代が出ないのであれば、その残業はサービス残業になる。そして、サービス残業をしている時、僕たちはタダで働いているんだ! つまり、お金をもらわずに働くということは、ボランティアと同じなんだよ!」
同僚たちは一斉に立ち上がり、割れんばかりの拍手を送った。中には感動のあまり、持っていたエナジードリンクをこぼす者さえいた。
「素晴らしい! まさに真理だ!」
「論理的すぎて、反論の余地がない!」
山田は満足げに頷き、再びモニターに向かった。
「さあ、仕事を始めよう。始めなければ、始まらないのだから」




