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第五章|助けを求めないという選択

ノートは、きれいに取られていた。


板書は抜けなく写され、日付も揃っている。余白には、先生が言った補足が簡単に書き足されている。読み返しても、困るところはない。


ただ、そこに感想はなかった。


以前は、分からなかったところに印をつけたり、後で調べるためのメモを書いたりしていた。それが、いつの間にかなくなった。必要なことだけを書き、必要でないことは書かない。


何が必要で、何が必要でないかは、もう迷わなかった。


日記帳も、同じように変わっていった。


最初の頃は、その日にあったことを簡単に書いていた。天気、授業、家で食べたもの。誰かの名前が出ることもあった。


最近は、天気と日付だけが並ぶ。


「曇り」「雨」「晴れ」


それ以上、書くことが思いつかないわけではない。ただ、書いても意味がない気がした。言葉にしたところで、状況は変わらない。変わらないものに、時間を使うのが惜しくなった。


困っている、という感覚も、少しずつ曖昧になっていく。


困っていると言うためには、基準が要る。どこからが困っていて、どこまでは普通なのか。ここでは、その線が分からない。


周りは、みんな問題なく過ごしているように見える。


自分だけが立ち止まっているなら、それは環境ではなく、自分の問題だ。そう考えるほうが、筋が通る。


だから、助けを求めない。


助けを求めるという行為は、今の状態を「異常」だと認めることになる。それを説明するための言葉は、もう持っていなかった。


授業中、先生が質問を投げかける。答えは分かる。でも、手は挙げない。


当てられないことに、安堵する。


声を出さずに済む。注目されずに済む。それだけで、無駄な消耗を避けられる。


誰かがノートを忘れても、貸し出しを頼まれることはない。プリントを配る係になっても、受け取る側は目を合わせない。


それで、何も問題は起きない。


問題が起きないということは、問題がないということだ。


放課後、図書室に寄ることが増えた。静かで、人が少ない。司書の先生は、必要以上に話しかけてこない。


本を選び、席に座る。読む内容は、頭に入ってこなくてもいい。ページをめくる動作が、時間を進めてくれる。


ここでは、誰にも期待されない。


期待されない場所は、楽だった。


家では、以前よりも口数が減った。聞かれたことには答えるが、自分から話題を出すことはない。


「眠れてる?」

「うん」


「学校は?」

「普通」


どちらも嘘ではない。


眠れているし、学校は普通に始まり、普通に終わる。ただ、自分がそこにいる理由を考えなくなっただけだ。


夜、布団に入ると、考えが浮かぶことはある。


このままでいいのか、という疑問。


けれど、その疑問は長く続かない。答えを出すための材料が、もう残っていないからだ。


助けを求めないことは、諦めではない。


余計な摩擦を避け、今ある形を保つための選択だ。ここでは、それが一番合理的だった。


そうやって、自分を納得させる言葉だけは、まだ残っていた。


翌朝も、同じ時間に家を出る。同じ道を歩き、同じ校門をくぐる。


誰にも気づかれず、誰にも引き止められず。


それが、失われていることの証拠だと、考えないようにする。


考えないことも、選択のひとつだった。

ありがとうございました。

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