⑨-2 不意打ち
ティニアは旧市街を抜けると、ライン川にかかる橋へと差し掛かった。アルベルトは多少の距離を置くと、その後に続いた。
橋を渡る人々が、二人を追い越していく。
ゆっくりとした足取りのティニアは無言だった。
橋の中腹に差し掛かったところで、アルベルトはティニアに追いついた。
ちらりと一瞬視線を向けるティニアだったが、やはり無言だ。
「なあ。迷惑なら、もう……」
アルベルトの声が聞こえたのか、ティニアは歩みを止めた。
「……俺、お前にとっては迷惑か?」
「…………」
「もし、本当に邪魔なんだったら、遠慮なく言ってくれ」
「べ、別に邪魔なんかじゃ……」
ティニアは振り返ることなく首を横に振ると、ライン川のせせらぎに目をやった。晴れ空に雲が浮かぶ、穏やかな天気だった。その空を、川は素直に映し出した。
ティニアは視線を落としたまま、ポツリとつぶやいた。
「……ボクについてきても、特に面白いことはないのに」
「面白いかどうかは、俺が決めることだ」
アルベルトの言葉に、ティニアは驚いたように振り返った。
「どうして……。どうしてそんなに、ボクにこだわるの?」
「それは……」
「ボクは、最低なやつなのに……」
ティニアの表情が歪んだ。
「そんなわけないだろ」
アルベルトはティニアへ歩み寄った。近くで見る彼女は、いつもより小さく見える。
ティニアは視線を逸らしたまま、ライン川のせせらぎを見つめた。
口元をキュッと締め、何かを押し黙っている。
「お前さ」
「……な、なに?」
ティニアはその青い瞳でアルベルトを見上げた。
ティニアの瞳は揺れるように輝き、その心配そうな視線と、アルベルトの瞳が重なる。
不安に駆られたティニアは、息を飲んだ。
橋の上を、五月の風が通り抜けていく。
アルベルトはティニアの両肩へ手をかけると、そのまま抱き寄せようとした。
「はあ。急にそんな顔をするな。……俺は、俺はどうすればいい?」
「へ……?」
もう一度、アルベルトは声を上げた。
「そんな、可愛い顔をするな」
間を置いて頬を赤らめると、ティニアはアルベルトから体を引き離す。浅い呼吸を繰り返すと、改めてアルベルトを見上げた。
「なあ。俺がこんな事を言うのはおかしいか? 久しぶりに会ったっていうのに、何も言ってこないじゃないか」
「それは……。その……」
「…………」
「……君は、もう大丈夫なの?」
心配そうに、ティニアが見上げてきた。再び距離が縮まったが、アルベルトは顔を逸らした。
「気遣いは、いらない」
「心配しないわけないでしょ。突然見かけなくなって……」
「…………」
「……聞かれたくないのかなって思ってた。……過去の清算をしてたんじゃないの?」
アルベルトは驚きと共に、言葉を失った。
「思い悩んでいたみたいだったから。マリアたちと接するうちに、普通に生活を送りたくなってたんじゃない?」
ティニアは目線をライン川へ向けたまま、本をギュッと胸に当てた。アルベルトは口を開けたまま、呆然と立ち尽くしている。
「ボクは、君はもう幸せになってもいいと思うよ」
「…………」
「言わせたいなら、言うけど。……たとえ罪を犯しても、罪を償おうとしない人がいる。でも君はとても悔いている。そして、償おうと必死でもがいている。幸せになってもいいと、ボクは思う」
「敗戦国の、元軍人でもか」
そうだね、と短く返答すると、ティニアは本抱えたまま川の向こうを見つめた。彼女の見つめる方向には、ドイツがある。
「償いは永遠に続く。死ぬまで、呪いのように君を縛るんだろうね」
男は返答せず、共にドイツの方角を見つめていた。
アルベルトは孤児として育ち、戦争を経てスイスへ亡命した。
具体的に何をしてきたのか、彼女には語らなかった。
聞いてほしかったわけでも、受け入れて欲しかったわけでもない。
拒絶されるのを恐れていたわけでもない。
罪と向き合い、償っていく道を模索し続けていただけだった。
でも、今は――。
「抱えてほしい?」
「ッ……」
「ボクになら、抱えてもらいたい?」
押し黙ったアルベルトへ、ティニアは優しく微笑んだ。
「君は君でしょ。今も、……昔も。そして、今を生きて、今を過去にしながら、明日を生きるんでしょ。別にいいじゃん。結局生きていかなきゃいけないんだから、楽しくやらなきゃ損だよ」
「……そうだな」
暖かな風が二人の間に割って入り込むと、ティニアは改めて微笑んだ。金髪の髪がなびき、ティニアは本を片手で抱えながら髪に触れた。
「でもボクは君を抱えられないし、抱えようとも思わないよ」
「わかってる」
「わかってるから、ボクの傍に居ようとしてるよね」
川のせせらぎが妙に大きな音を立てる。気付けば周りに人気はなく、橋の上は二人だけだ。ティニアは本を抱きしめながら、男へ向き合った。
「君はね」
一瞬だけ目をそらすと、女性は蒼い瞳を金色に輝かせた。天駆ける太陽光が反射し、金髪はより金色に輝き、瞳は煌めきを増した。瞳は熱を帯び、湿らせていく。
「君は、人の愛情が怖いんだ」
ティニアの声は震えていた。
「信頼も怖い、期待されるのも怖い。そうじゃない……?」
「…………」
「ボクは独りよがりの人間だ。だから、ボクの傍に居ることが一番気楽なんだ。そうなんじゃない」
「……違う」
「ボクは隣には立てないし、立たないよ。……そんなことをしなくても、君は幸せになれるから」
「…………」
「君なら大丈夫。物理法則を超えられる。ボクは信じているよ」
風が柔らかに撓めき、微笑む女性が目の前に佇んでいる。女性は万遍の笑みで微笑み、瞳は川にも空にも負けぬほどの煌めきを放っていた。




