⑧-1 花束を添えて
あの日以降、アルベルトの姿を見かけることはなく、一月が経とうとしていた。
季節は暖かな五月を迎えた。マリアには不安な気掛かりだけが心の奥底に残っていた。
マリアはミランダが不在の間、休業しているペラルゴではなく、花露店のメアリーの店で勤務している。
メアリーは体が、特に足が不自由だ。その状態で花露店を続けていたが、最近は病院の通院が増えていた。
「メアリーさん、水替え終わったわ」
「あら有難う~。手際がいいのねぇ」
気難しいと言われていたメアリーは、ご自慢の鼻歌を歌った。鼻歌に合わせるように、各々の露店からは賑やかな音が鳴った。
「最初はメアリーの目つきの悪さから、非難轟々だったのに」
「あら、目付きがどうしたの?」
「な、何でもないの! それよりメアリーさん、農園には明日行くの?」
マリアの隣で椅子に座ったまま花へ水を差しているメアリーは、ウンウンと頷いた。彼女が上機嫌のままだったため、マリアは胸を撫で下ろした。
メアリーの鼻歌に誘われ、観光客が花を眺めにやってきた。マリアは花に夢中なメアリーの代わり、店先に立った。
「いらっしゃい」
「どの花も同じ値段?」
「ええ」
「うーん。色々見て回ってたのだけど、アイリスって今の季節はない?」
「アイリス……。注文があれば御売りすることが出来ます。すぐにご入用ですか?」
「うーん」
客は少々考えた後に、ホテルを指さした。
「あそこのホテルに泊まってます。あと三日は滞在出来るんですけど。滞在の間に買えたら、お墓に供えたいなって思っていたの。無理なら他の花にします」
「墓? お墓参りにアイリスかい」
メアリーが首を傾げながら会話に入ってきた。手にはピンクの花が多く握られており、花束を作ろうとしていたようだ。
「祖母が好きだったと聞いて。ピンクの花で、祖母は日本人なの」
「ピンク? それ、アイリスでした?」
マリアの言葉にメアリーも首を傾げるが、すぐに客に向き合った。
「日本だったら、アヤメじゃないかい?」
メアリーの言葉に、客は首をかしげた。
「うーん、違ったと思うけど……」
「花弁は上向きに咲いていたか、下向きに咲いていたか、わかるかい?」
客の女は写真をカバンから取り出した。
写真を見たマリアとメアリーは、共に顔を見合わせた。
「これ、リコリスかしら?」
「ダイヤモンドリリーかもしれないね」
「あっそれよ、それ! ダイヤモンドリリー!」
「ああ、良かった。ダイヤモンドリリーの季節は秋だけれど、今の農園にはあるかな?」
「別のハウスで育てていたはずだよ」
「本当!? なら、明後日に来るわ!」
「そうしたら、十本なんとか都合をつけようじゃないか」
メアリーはブツブツと計算に入った後、電話を借りてくると歩いていった。
女性は胸に手を当て、掛けられた十字架に触れた。
「……怖い人かと思ったけれど、花への愛を感じるわ」
「メアリーさんは優しい方だもの」
マリアは微笑んだ。
「ふふ、そうね。それじゃあ明後日の九時、ううん。十時でもいい?」
「はい! 伝えておきます。お待ちしておりますね!」
「ありがとう、お願いね。一応、私の名前とホテル番号よ」
女性はカバンからメモを取り出すとペンを走らせ、マリアに手渡した。女性の名もまたマリアであり、指輪がきらりと光り、既婚者であることが分かる。
「ありがとう、私もマリアというの。十時にお待ちしております」
マリアは客と笑顔で握手を交わした。
「あら! 貴女もマリアというのね……」
「そうなの。世界共通の名前なのね」
しかし、女性は急に苦笑いを浮かべた。
「そりゃあ、世界で一番有名な女性名ですもの。……ねえ、貴女。イタリアに行ったことはある?」
「えっ……。何かありました?」
急に振られた話題。
マリアは油断し、素直に反応を返してしまった。
客は特に気にした様子はなく、そのまま話し続けた。
「最近イタリアの海沿いでは、廃墟で溢れている――放棄された施設が多いって話題になっていたのよ」
「そうなんですか」
「特にシチリア島は孤児院の廃墟も多いって聞いてね。しかもそれが聖マリア孤児院っていうらしいじゃない?」
「…………」
「聖母の名を語って、表には言えないことをしていた。なんて噂もあったのよ」
頭の中が白くなっていくのを感じた。
「マリアだなんて孤児院に掲げて、何をしていたのかしら」
「…………」
「この町にも孤児院があるっていうじゃない? だから、心配になってね。」
彼女の言う孤児院とは、ティニアの孤児院のことだろう。
評判のいい孤児院は聞こえこそいいが、そこにはティニアたちの努力の成果だ。
「……この町の孤児院は、いいところだわ。悪い噂なんてないくらいに」
「そうなのね! それは良かったわ。廃墟になった孤児院へ入っていた子供たちは、どうしたのかしら。関係のない話をしてごめんなさいね」
「……子供って思ってるよりは逞しいですから。元気ですよ、きっと。そう思ったほうがいいです」
「そうね。ありがとう、本当にそうね。ではまたね。色々ありがとう」
「こちらこそ!」
マリアは浮かべた笑みと真逆の心を露わにしていた。
客は人混みに紛れ、やがて見えなくなった。
イタリアの孤児院。それもシチリア島の孤児院の多くは廃墟であるという。
マリアは、アルベルトの言葉を思い返していた。
――「子供を売り、金銭を得ていた」
――「聖マリア孤児院」
アルベルトが育った孤児院かもしれない。
そんな名前の孤児院、どこにでもあるだろう。
それでも、心のざわめきは消えなかった。
戻ってきたメアリーに気取られぬよう、マリアは笑顔を心掛けた。
その後も花露店で花を売り、マリアは帰宅した。
自室へ入ると、何時ものように索敵を開始し、町から姿を消したのだった。




