⑦-1 オトナというものは
時は1950年。
永世中立国であるスイスのシャフハウゼンは、他国との国境に面している。
シャフハウゼンにあるライン川を下れば、やがてボーデン湖へ辿り着く。
広く美しいその湖を、マリアはまだ見たことがない。
シュタイン・アム・ラインはせっかくの土曜であるものの、生憎の雨模様である。
観光客は美しいフレスコ画を眺めるために、広げた傘から顔を出さなければならず、人はまばらだ。とはいえスイスは割と雨がよく降っては止む事が多く、住んでいる者たちにとってそれは日常と変わらない。
朱色の髪を靡かせたマリアは、シュタイン・アム・ラインの町を歩いている際、兄妹に出くわした。兄妹はフレスコ画について聞きたがっていたが、マリアは詳しいことを知らなかった。
困っていたところへ、通りかかった男がマリアへ声をかけた。
ミランダの旦那、ディートリヒだ。
襟足で髪を束ねたその男は、やや着崩した服のまま、あごひげを撫でて得意げに笑った。
旧市街地のフレスコ画を回りながら、ディートリヒはその歴史を語った。
さながら、彼は観光案内人のようだ。
兄妹の兄はマリアに見惚れ、呆然と立ち尽くしていた。妹は腕を引っ張ると、兄の傘を奪った。
「もう。兄さん、何のための傘なの?」
「悪かったよ、ちゃんと持つよ」
目の前の兄妹喧嘩を、マリアは羨ましく見つめていた。ディートリヒはその横顔を、何も言わずに見ていた。
「案内までしていただき、ありがとうございます。祖父母の思い出の町を回ることが出来て、とても有意義な時間でした」
「ありがとうございました」
兄妹はマリアとディートリヒに何度も御礼を述べると、そのまま教会へ向かった。二人が見えなくなると、マリアは深く息を吐いた。
「ふう。ディートリヒさんに会えて助かった。フレスコ画のこと、よく知らないのよね。適当なことを語るわけにもいかないし……」
「マリアも本でも読め。本は裏切らんぞ」
「そうね。本当にそうだわ。この町に住んでる訳だし、知らない方が変よね」
「変なことは無い。知らないことを知るというのは、なんとも探究心をそそられるじゃないか。……それより、その花束はどうしたんだ」
マリアの腕には大きな花束が大切そうに握られている。種類や色も様々であるため、特に目を引く上、花束のバランスも悪い。
「今日はメアリーさんが病院の診察に行くので、露店がお休みなの。だから自主練しようかなと思って」
「なんだ自分で買ったのか。お前もちょっとは色恋沙汰に興味があればなぁ。イケメンとか好きなんだろ」
「それはまあ。目の保養に。でも、……私にはまだそういうのは要らないかな。やりたいことや、やらなきゃ行けないことが沢山あるのよ」
マリアは花束をディートリヒに見せるように、軽く上へ持ち上げた。やれやれと呆れる男に、マリアも笑みがこぼれた。
「あいつも勉強熱心な弟子が出来て嬉しく想うだろうな。しかしメアリー、土曜日に病院とは珍しいな。足の具合はそんなに悪いのか」
「うーん。まだ杖を持つには早いとは言うものの、花籠を持って歩くのは辛そうだったの。冬は翻訳の仕事でほとんど動かなかったみたいだし、いきなり動き出したのもあるとは思うわ」
「そうか……」
ディートリヒは雨が止んだのに気付き、差していた傘を閉じた。マリアはディートリヒにエスコートされるように、横に並んで歩いた。
「ありがとう。本当に助かったわ。傘も持って出なかったし」
傘は花束を持つのに邪魔であったため、家に置いてきていた。たまたま通りかかったディートリヒのおかげで、濡れずに済んだことは素直に嬉しい。
「……メアリーも、あいつの店でお前達と一緒に、花屋をやれたら良いんだろうけどな」
「そういう思惑もあって、ミランダさんは私をメアリーの露店へ薦めたんだと思うわ」
うんうんと頷くと、ディートリヒは口寂しさを感じ、一服しようと胸ポケットへ手を入れた。
「ちょっとやめてよ。花と髪が煙り臭くなるわ」
「……へえ」
「なによ。どうしてそこで笑うの?」
マリアは不満そうに顔でも訴えたが、ディートリヒは更に笑った。
納得がいかない様子で、マリアはムッとしたままディートリヒを見つめた。
むせるように笑うと、ディートリヒはマリアを見た。優しく笑っている。
「いや、悪い……。随分素直になったなあと思ってな。今までだって、そんなに俺と話なんてしなかったじゃないか」
「……煙草はいつも煙たそうにしてたわ」
「なんていうか、柔らかくなった。お前はいつもはっきり言葉せず、仏頂面だったじゃないか。嫌われてんのかと思って、こっちから話し掛けなかったんだよ」
「えっ、そうなの? それは、その……。ごめんなさい」
ふう、とため息を軽くつくと、ディートリヒは花束に視線を向けた。
「まったく。……マリアはさ、俺達の娘みたいなもんなんだ」
「え?」
マリアは花束を軽く握った。
ディートリヒは吹かし損ねた煙草を懐へしまいこむ。
「お前がどう思おうと、俺達は勝手にそう思ってるから、厭ならやめるぞ」
「……嫌じゃないよ」
「そうか」
「うん。ねえ、花束をもう少し買い込んでも良い?」
「うん、やっぱりお前は俺の娘だよ。俺の妻に似てきたな」
マリアはにんまりして微笑むと、来た道を戻っていった。
初々しくもさほど年齢の離れていない義父娘は、美しい旧市街へ向かったのだった。
少々肌寒い今日、空は透き通るように晴れ渡っていた。




