⑥-4 診療所
『アドニスが帰宅した』と呟くまで、ティニアのピアノは続いていた。そして何事も無かったかのように、神父を呼びに行ってしまった。
彼女の演奏は、そこで途切れた。
神父アドニスはティニアと共に教会に姿を現した。ティニアが説明したのだろう、特に警戒している様子はない。アドニスは丁寧に謝罪をするアルベルトを受け入れ、というよりは困惑した様子だ。
ティニアは複雑な表情を浮かべ、二人を置いて教会を後にしようとした。アドニスは慌ててティニアに声をかける。
「もう行くのですか?」
「うん。もう少しで約束の時間だからね」
「約束?」
「診療所。定期健診だよ」
ティニアはそれだけ言うと、そのまま教会を出ていった。アルベルトはティニアの出ていった教会の扉ではなく、ピアノの鍵盤へ視線を移した。
「どこか、悪いのか」
アルベルトは眉をひそめた。アドニスは一瞬戸惑ったが、正直に説明することにした。
「……悪いところがないかを調べる。そういう健診ですから」
「そうか」
アドニスはティニアの飾った花瓶に近づくと、その花を見つめた。花はスミレであり、孤児院の花壇で育てられた花だ。茎が折れてしまい、ティニアが切り取って飾ったものだ。
「神父は、ティニアとはどういうご関係で?」
「……腐れ縁、と言ったところですよ」
アルベルトはアドニスからの回答に不満を感じたものの、それ以上言及する気にはなれなかった。
◇◇◇
土曜の旧市街は朝から空が薄暗く、生憎の雨であった。今は小雨になり、滴り落ちる程度である。それに気付かず傘をさし続ける人達が数人、往来している。
ティニアは傘をささずに旧市街を歩くと、診療所の扉を叩いた。すぐに白衣の女性が出迎えると、ティニアを奥へ案内した。
「こちらでお待ち下さい」
そばかすのある看護師が、丁寧にお辞儀をすると、奥へ下がっていった。診療所の奥には病棟があるが、簡易的なものだ。
大きな衝突音と、小さな悲鳴が聞こえたところで、病棟のカーテンをめくって眼鏡を直す男が顔を出した。
「ティニア、さん?」
「……うん、ティニアだよ」
「良かった。診察室へ行きましょう」
男は白衣に身を包み、カーテンレールを慎重にくぐった。
「痛ッ」
診察室へ入る前に、再び頭をぶつけると、特にそれ以外の動作もなく診察室へ入っていった。
「結構痛そうだね、レオン先生」
天井を眺めながら呟く患者へ、眼鏡の医師レオンは苦笑いを浮かべた。
「なかなかに低めの設計ですよね、ここは」
うんうんとうなずく患者を前に、レオンは眼鏡の向きを直した。
「ティニアさん、簡単な事から伺うのですが」
「アドニス神父が手渡してきた様子観察書みたいなのと、その神父が話したままなんですよ」
レオンが言い終わらぬうちに、ティニアは前かがみになっていた。その様子からは焦りというよりも、早く終わらせて帰りたいという様子が垣間見える。
「うーん。記憶障害や心理的な症状も考えられますが、曖昧な記憶は今も戻りませんか?」
「戻っていないね。気付いた時には皆が驚いてたっていうか」
「ふむ……」
レオンは腕を組むと、首をかしげながら思案に入った。その様子を見るとティニアは座り直し、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「その後、その症状は?」
「今はまだ無いです」
「うーん。ちゃんと休めてはいますか?」
「休めています」
「うーん」
レオンは再び腕を組んだが、目線はアドニスから手渡された紙を見つめる。ティニアはほとんど覚えて居らず、周囲に居た者の方が現状を把握できる状況だ。
「軽く、検査だけはしますが。宜しいですよね」
「うん」
レオンはテーブルのベルを鳴らし、すぐに看護師がやってきた。




