⑤-1 予感の朝
夢を見た。よく見た光景だった。
紫と空色のインクが混ざり合ったかのような青空に、白い雲がいくつか浮遊している。
見渡す限り草原の広がる大地の中央には、大きな岩山が聳え立つ。
岩山の麓には鬱蒼とした森が広がっており、岩山への侵入を拒むかのようだ。
反対方向には無限に広がる、岩山よりも大きな山脈が広がっている。
決まってぼんやりとした耳鳴りが響き渡り、それでいてしっかりとした夢であるという感覚のある夢。
マリアにとって、よく見る夢の一つだ。この場所を、マリアは知らない。
起きているときも、たまに眩暈と共にフラッシュバックするほどの、印象的な風景であった。
◇◇◇
「ん…………。朝、かあ」
雲が低く垂れこめた四月。肌寒い、とある土曜日の朝だった。
マリアは休みだが、ティニアはいつも通り孤児院へ向かう日である。
夢に見た光景は、どこか懐かしく心地良かったが、内容は忘れてしまった。
ぼんやりと惚け、起き上がった体を再びベッドに委ねた。
ミランダの居ない店、花屋ぺラルゴは休業中だ。勉強に訪れるアンナの花露店も、今日は休みである。
またとない休日をどう過ごそうか。
マリアはゆっくりと起き上がると、顔を洗うためにパジャマで部屋を出ようと、ドアノブに手を掛けた。しかしそこで気付いた。今日は、部屋を出るだけで一呼吸必要だったからだ。
赤毛で長身の男、アルベルトが一泊している。
昨晩、マリアはアルベルトとそれなりに会話を交わした。抱いていた警戒感は薄れ、信頼できるのではないかという思いが勝った。実に有意義な会話だったと思っている。
もう一度自分の服装を確かめると、着古したパーカーを着た、寝ぐせだらけのマリアが立っていた。意識しているわけではないが、服を見て笑われるのは避けたい。
「さすがに寝てるよね……」
マリアは音を立てず、ドアノブを回して扉を開けた。幸い電気はついておらず、薄暗い。アルベルトの姿はなく、リビングのテーブルの上には書置きが置かれていた。その下には一冊の本が置かれている。アルベルトの泊った部屋は布団だけが綺麗に畳まれていた。
書置きには、物音が響くので家具を元に戻さずに出立したこと、夕飯の礼、そして午後に改めて訪ねるという一文。——どこまでも、律儀だ。
本はティニアの好きなヘッセのものであり、恐らく渡しそびれた三冊目の本であろう。庭仕事の本のようであるが、紛れもなくヘルマン・ヘッセ著だ。
「うーん。アルベルトはあの子に会う口実を作ったのよね?」
独り言をつぶやき、彼女の部屋のドアを見つめた。ティニアの部屋から物音は聞こえない。珍しく寝坊しているようだった。マリアは扉を軽くノックしたが応答はない。
返事を待つ間が、長く感じる。
不安に駆られるとはこういうことか、と。
「ティニア、起きてる? 開けるよ?」
マリアが声をかけたその時、玄関の扉が開いた。冷たい外気は、マリアの髪を悪戯に靡かせる。玄関にはティニアがおり、コートも羽織っていない。
「ティニア!」
「おはよ~。どうしたの? 泣きそうな顔して」
「だって、部屋が静かだったんだもの……」
「ごめん。日課の散歩に出てた」
優しく微笑む彼女は、至って普段通りだった。
普段通り。
その様子が、返って不自然に感じられた。
「夜明けくらいに物音もしてたし。丁度あの人が出てったところみたいだね~」
「……そうなんだ。じゃあ、見送りをしたわけでもないのね」
「うん。帰ったのは二時間くらい前かな?」
ティニアはマリアが片手に持ったままのメモを見つめると、内容を察したようだった。
ティニアにとって、アルベルトという存在が必要なのであれば、寂しさがにじみ出てもいいだろうに。ティニアは普段と何ら変わらない。
普段の彼女を知るマリアにとって、知らない男を家に上げるという行為についてはよくわからない。
その時マリアは思い出した。ティニアが泣いていた光景を。アルベルトが突然押し掛けてきたであろう時、ティニアはひどく怯えていた。好意の有無より前に、そのことを聞くべきであったか。
あれは、何だったのであろうか。
ティニアは黙り込んだマリアを見つめると、閃いたかのように上へ目線を送った。
「マリアから見たら、あの人はイケメンなの?」
「……え? ……は?」
面食らってしまった。
心配や不安と言った覆いかぶさっていたことが、全て取り除かれてしまった。
「え? 違った?」
「違わないけど……。じゃなくて! そういうことじゃないの!」
「あれ。そうなんだ」
尚も難しい顔をしたマリアを見つめ、ティニアは苦笑いを浮かべた。
「どうしたの?」
「……本当に、知り合いじゃなかったの?」
「うん。知り合いじゃないよ。あの人は冗談を言っていて、僕に気があるように言ってるだけだよ」
マリアもそんなティニアに向き合い直し、目線を合わせる。マリアのほうが背が高く、身長差は少々あるが、自然と目線が合わさった。
「私には、本気に見えたけれど……」
「ううん、あれは冗談だよ。物理法則が乱れても、覆らないと思う」
「うーん。私に対して言う軽口の方が、よっぽど冗談じゃない?」
「うーん。冗談じゃなくて本気、かあ……」
まるで、そんなことなどありえないかのように。
ふと、マリアは目の前の女性の右手に、銀に光るものを目にした。ティニアがその手を握り締め、光が反射した。




