③-5 黄昏時
小さな教会に響いた轟音は、私室にいた神父アドニスに届いた。慌てて教会へ向かうと、そこにはティニアが息を切らしていた。
「何かと思えば、ティニアではないですか。どうしたのですか? その様に大きな音を立てられると、流石にこちらも……」
アドニスの言い終わらぬ内に、ティニアは祭壇の裏側へ回るとその陰に身を隠した。
「えっと……。そうして居られると、ただの猫ですね。魚でも盗みましたか?」
「黙って」
ティニアには、いつものお道化た様子はない。
余程焦っていたのか、教会の扉を閉じただけで、鍵となる板をはめ込んでいない。
そのまま飛び込むように、祭壇の陰に身を潜めた。
やれやれと、神父アドニスは入口に近づき、扉を封じる木製の板を拾い上げた。鍵だけでもかけてあげようと思ったのだ。
しかし次の瞬間、扉が勢い良く開いた。
神父は驚きと共に、呼吸を忘れてしまった。
目の前には息切れした長身の男がいた。長いロングコートを羽織り、髪はマリアとは違う赤毛だ。
「どうされましたか。……その様に、扉を乱暴に開閉されたら壊れてしまいますよ」
「ッ……、申し訳ありません」
男は落ち着きを取り戻そうと、ゆっくりとお辞儀をした。
アドニスはティニアの存在を気取られぬよう、冷静になる必要があった。
男は教会内を隅から隅まで見ると、アドニスへ振り返った。
「ここは教会です。祈る気がないのであれば……」
「あの、こちらに……、ティニアという名の女性が来ましたよね」
「生憎、如何なる方の個人情報もお話するわけには参りません。先日もそうお答えしたはずです。お引き取りを」
「お願いします。教えてください、彼女は……」
「何でしたら、衛兵を呼びますよ。貴方にとって、都合のいいものではないのでしょう」
「…………」
男は項垂れることをせず、真直ぐと神父を見つめた。神父もそれなりの身長を保持していたものの、それよりも僅かに高い。
「構いません」
男は神父にそう伝えると、両手を上に挙げた。
「火器の他、刃物の類も持っておりません。これ以上、教会内へ入ることは致しません。約束します。少しでいいのです。少しだけ、彼女と話をさせて欲しい」
「…………」
アドニスが判断を決めかねていると、男は何かに気付き、祭壇の方を見つめた。
教会内へ歩もうとする男を阻もうと、アドニスは手を広げて男の前へ立った。
「おやめなさい、それ以上は許せません」
「貴女は、以前ドイツに居たことが――」
「あなたねえ、ダメって言ってるじゃありませんか!」
「ポツダムです、1936年です。それだけ、どうか教えていただけませんか!」
男は尚も叫んだ。
ティニアからは、息遣いさえ聞こえなかった。
祭壇だけが、教会から切り離されたかのようだ。
「私は人を探しているのです! その方は、1936年にポツダムの酒場に居たのです! 私に一声かけると、そのまま店の外へ出られて……、すぐ追いかけたのにどこにもおられなかった。誰も、何も知らなかった!」
返答を待っているのだろうか。男の息遣いだけが聞こえる。
「教えてください……。貴女でなければ、諦めが付くのです。お願いします」
アドニスの静止を振り切った男は、その場に崩れ落ちた。首を横に振り、懺悔するように頭を下げた。
男を起き上がらせようと、アドニスが口を開いた時、女性の声が静かに響いた。
「わかったよ」
これに驚いたのはアドニスだ。祭壇からは、僅かに柔らかな布が擦れる音が聞こえだした。
男の眼は、一瞬だけ光るように見えた。
太陽が傾き、天窓から黄昏の光が祭壇を照らしたためだろうか。
ティニアは祭壇の影から立ち上がると、ゆっくりとした動きで振り返った。
「御姿を出していただけるとは、思っておりませんでした」
「そう」
淡々と言葉を交わす彼女に、アドニスは驚きを隠すので必死だった。
「神父、扉閉めちゃって。見世物じゃないし」
ティニアは目を閉じたまま、静かに言った。
「平気だよ。悪かったね、神父。騒がせたね」
アドニスは無言で頷いた。
男はその場から前に出るようなことせず、ゆっくりと立ち上がった。
視線もティニアへ向けたままだ。
ティニアは目を開くと、アドニスへ向かって苦笑いを浮かべ、頷いた。
アドニスも黙って頷き、扉を静かに閉めた。
扉が閉まったことを確認すると、ティニアは再び目を閉じた。
「でもね、僕は――」
微動だにしない表情が、かえって冷ややかだった。
男は息を忘れたまま、ティニアを呆然と見つめていた。
「見ず知らずの奴に、どうこう言う気などないんだよ」
ティニアは腕を組むと、祭壇に寄り掛かった。
「朱色の髪の彼女が、すでにお話していると踏んでいたのですが」
「はあ。僕の友人は優秀なんでね」
「そうですか」
男は目を閉じると、肩の力を抜いた。項垂れているようにも見受けられる。
ゆっくりと目を開くと、男は余裕のある表情を浮かべた。
「私の名は、アルベルト・ワーグといいます」
「ワーグのスペルは?」
ティニアは間髪入れずに、直ぐに返答を求めた。
男――アルベルトも同じような表情を浮かべると、苦笑いを浮かべた。
「……聞き出したいのは、スペルではないのでしょう」
「意味が分かっているのなら、答えなよ」
ティニアは胸に手を当てると、口元だけを緩ませた。
アルベルトはティニアに習い、胸に手を当てた。
「W,A,R,G、です。私はイタリア生まれですが、ドイツへ渡った際に、苗字として名乗れることになりました」
「へー、そう」
目を細める以外、何一つ変わらない表情を浮かべたまま、ティニアは寄り掛かっていた祭壇から立ち上がった。




