③-3 一人の女性として
ティニアの様子は普通では無い。止まってしまう症状とは違う。
今の彼女は、か弱い一人の女性に見える。
ティニアを抱きしめたまま、マリアは呼びかけた。
「ティニア。思い浮かぶその人は、赤毛の、背の高い人、だよね?」
ティニアは何も言わない。マリアはすれ違っただけの男を思い出しながら、その特徴を述べた。
「瞳が青くて、それから……」
「…………あお、い……?」
ティニアが顔を上げたことで、マリアは体を起き上がらせた。
ティニアはただ前を向き、目を見開いた。すぐにうつむき、遠くを見つめたまま、何かを思い出そうとしているようだ。
まるで、愛おしい記憶を想い出すかのように、瞳が湿り気を見せた。
その瞳が、突如として歪んだ。まるで、苦痛を伴うかのように。
青白かった顔色は、いつもの肌色に戻っているように見える。
体の震えも、少し治まっている。
「……ッ…………」
「……ねえティニア、彼と何か話したの?」
「ううん、何も……」
「……そうなのね」
ティニアは再び俯くと、また遠い目をした。マリアは言葉を飲み込むしかなかった。
今は声を掛けてはいけない気がした。
コツコツと、時計の針の音が聞こえてきた。いつもより大きく聞こえるように感じる。
カタカタと、窓枠が揺れた。風が出てきたようだ。
しゃがみこんだまま、マリアはティニアの言葉を待った。
数分の無言を貫いた後、ティニアは徐に語りだした。
至近距離で、ようやく視線が合った。
ティニアは、苦痛を思い出すかのように、苦々しい笑みを浮かべている。
「あのね、広場でアンナさんと会って。ザンクト・ガレンに引っ越したアンナさんだよ、わかる?」
「うん」
床に置いていたマリアの手に、ティニアの手が優しく重ねられた。
ティニアの手の震えは止まっている。
「アンナさん、本をね。渡そうと思ってたらしいんだ。でも、僕は受け取らなかったの。……そいつが来たから」
「そう。そこで初めて会ったの?」
「……前にも、声をかけてきた人だよ」
落ち着きのない、か細い声が発せられた。
マリアに心配かけとし、話していなかったのだろうか。
それを咎めようとは思えないが、話してくれなかったことへの寂しさを感じた。
「そうなのね」
「ごめん、黙っていて」
ティニアはマリアを見据えた。
マリアは一瞬目を閉じると、ゆっくり首を横に振った。
「ううん、いいのよ。多分、家の場所も、アンナさんが教えたのよ。世話焼きだからね。それで……」
「家の、場所……?」
「うん。さっきそこの通りで会ったの。……これ、渡してくれって、アンナさんが男に頼んだの」
「え……?」
マリアはヘルマン・ヘッセ著の二冊の本を、床に丁寧に置いた。
ティニアの青い瞳孔が大きくなったように見開くと、その本に触れた。
一冊をずらし、二冊目のタイトルも確認すると、無言になった。
「ティニア、ごめんね……」
「どうしてマリアが謝るの?」
「私ね、あの男が、ティニアに何かすると思っていたの。男は知り合いに似てるから、声を掛けようと思ってただけみたいなの」
「……しり、あい……?」
ティニアは顔を上げたものの、酷くショックを受けたような複雑な表情を浮かべた。肌色に戻っていた顔色が、蒼く変わる。
一瞬躊躇ったが、マリアはティニアを信じた。
「なんとなく、探している人に似ていたんだって。でも近くで見たら、全然違う人だったって話してたわ」
絶句なのか、ただ言葉が見つからないのかはわからなかった。
ティニアは無言のまま、マリアを見つめていた。
「イタリアのね、シチリアで育ったって、言ってた」
「イタリアの、シチリア……」
「うん。少しだけ話をしたの。怪しいところはなかったわ」
「…………」
遠くで、教会の鐘が鳴っている。
夕方とはいえ、スイスの夕暮れ時は明るい。
今が何時なのか、マリアが確認しようと時計に視線を向けた時だった。
「マリア」
声を掛けられ、すぐに視線を戻した。
「ありがとう」
短い言葉と共に、彼女らしい笑顔が待っていた。




