③-1 蝶
言葉にならなかった。
マリアは、呆然と立ち尽くしていた。
指先が小刻みに震えているのに気付き、気付かれぬようにそっと隠した。
シュタイン・アム・ラインの町の一角。
細いリギューエートリ通りで、マリアは赤毛の長身男――アルベルトと対峙していた。
石畳の路地で、雨上がりの町を重く冷たい風が通り抜けていく。
マリアは靡いた自らの髪の毛によって、視界が遮られたことで我に返った。
アルベルトは二冊の本を石畳に敷いたハンカチーフの上に置くと、そのままマリアの横を通り過ぎていく。
「待って……」
男の足へ向け、辛うじて声を絞り出す。
「なんでしょうか」
静かな声が、頭の上から降ってきた。
返答が得られたという安堵感はなく、無気力なその返答に動揺してしまう。
「……あなたは、ティニアを知っているの?」
声が震えている。
マリアは足元から、アルベルトを見上げた。
しかし、アルベルトは寂しそうに視線を外し、遠くを見つめた。
アルベルトの瞳は、かなり濁った青色をしている。
拠点、アウローラで目にしたことがある。幾多の戦場を経験したような、死の恐怖と戦ったかのような目だ。
退役、もしくは亡命したのであろう。出所にしては早すぎる気がする。
アルベルトは音のない深呼吸をすると、漸くマリアを見た。
「そうであれば良いと、何度も考えました」
「…………」
「なんでしょうね。どういえばいいか……」
少しの、ほんの少しの沈黙だった。生暖かい風が地面から吹き出し、異様な世界を黄昏に導くようだった。
「知り合いに、似ていたのですよ」
「知り合い……?」
「知り合いとはいっても、姿はまるで違います。ポツダムで会った方は、男性のようでしたしね。男性とは一言二言の会話しただけで、名前も住んでいる場所も知りません」
マリアは息を飲んだ。
一つの灯の光が、マリアの心に灯る。
似ている人。
柔らかな金髪、そして青く透き通った瞳。
背格好もよく似た二人。
「あの後、ドイツだけではなく、世界で大戦になりました。もう、ご存命でおられないかもしれません」
(アルベルトの言う、似ている人とは――)
「ティニアさんは、何度か町でお見掛けしていたのです。なんとなく、その時の方ではないかなと」
(……違う。レイスじゃない……。ティニアでもない、ただの似ている人だ)
「当然ですが、似ても似つかない方です、ティニアさんは。その度に声をかけようと思っていたのですが、中々。この国では気安く女性に話しかけるということが、どうも珍しいようで」
苦笑いを浮かべるアルベルトは、年齢よりも若い表情をした。
「お名前もこの本を預かる際に、初めて。偶然、居合わせたご婦人から聞いただけですよ。知りませんでしたから、……何も」
最後の言葉だけが、雑に聞こえた。
「……どこで会ったの? その人とは」
「ドイツの、ポツダムですよ。1935、いや36年ですね」
「…………」
「それでは、私はこれで失礼します。御心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした」
男は再び丁寧にお辞儀をすると、そのまま旧市街へと歩いていった。
アルベルトの語る男は、レイスではない。
1936年のドイツ、しかもポツダムにレイスがいたなどありえない。彼女はマリアと行動を共にしていた。
欲しい情報ではなかった。それが、妙に安心感を与える。
二冊の本は、物言わずにそこにいた。
本へ手を差し出したものの、屈まなければ届くわけがない。
指先は、ただ空間を撫でただけだ。
マリアは、自分が何をしたかったのかを考えた。
ティニアの事を守ろうとしていた。
それなのに、自分のしたことはレイスの情報を探ることだった。
(違う、わたしは――)
どれくらい、その場にいたのだろうか。
マリアは遅れて振り返ったが、男の姿はどこにもなかった。
震える手で、石畳に乗せられた書籍を手に取る。
「ヘルマン・ヘッセ……」
ティニアが好んで読む詩人だ。恐らく、男が会ったという女性はアンナだろうか。確かアンナは今、ザンクト・ガレンに住んでいる。男の話していたスーツとは、恐らくそこの会社のものかもしれない。
アルベルトの情報は、偽りなどではなかった。
石畳は、今朝から降っていた雨で、水たまりが出来ていた。汚れ、濡れていたのだ。厚手で白く上質なハンカチーフは汚れ、濡れてしまっている。本は無傷だ。
「私、……なんて、失礼なこと」
ティニアの好む詩人の書籍二冊と、汚れてしまったハンカチーフだけが手元に残った。




