②-8 戯言
マリアは相手にわからぬよう、静かに深呼吸した。
改めて見直せば、男は佇まいが軍人に似ている。当然だが、スイス人ではないだろう。
「まだ振り返らないで、先に名前を名乗って!」
振り返ろうとした男は、すぐに動きを止めた。
マリアの荒い息遣いが、空間に響いていった。
「ウィリアム・マーティンと言います」
「ふざけないで。バカにしているの? どう考えても偽名じゃない」
「いえ。疑われる事を想定していましたので、最初から本名を名乗る気はありませんでした」
「なんですって?」
マリアの動揺を笑うように、男は言葉を垂れ流す。
「真実を話したところで、貴女が私を信用しない限り、それは偽りとして扱われるでしょう。であれば、正直に真実を話したところで損をするのは私だけですからね」
「…………」
男はほぼ間違いなく、軍人だ。ウィリアム・マーティンなどという偽名を出す点からいっても、軍人の悪い冗談である。
「じゃあ本当の名前は?」
「アルベルト・ワーグと申します」
「……国は?」
「生まれはイタリア、シチリア」
「…………」
マリアは表情をひきつらせた。偶然の一致の筈だ。
アウローラの拠点があったと思われる、イタリアのシチリア。
あまりに近すぎる発言に、マリアの心が跳ねた。動揺を気付かせるわけにはいかない。
男――アルベルトはマリアの変化に気付いていないのか、言葉を続けた。
「1933年に、今のドイツへ渡りました」
「……それはまた、わざわざ混迷の年に」
「ええ、本当に」
アルベルトは溜息を付き、北の方角を見つめた。ドイツの軍人であるのであれば、よほどの事情があるだろう。わざわざこの時代にその名を出すなど、男にとっては不利でしかない。
「年齢は?」
「十一月で、三十歳でしょうか」
「随分と曖昧な言い方なのね」
「孤児なもので。孤児院へは1928年に入りまして、その時点で五歳くらいではないかという事でした。幼い時は背も低かったので、諸事情から、1920年生まれということにされています」
淡々と語るアルベルトには、余裕が見て取れる。年を答えるということで、信憑性を増そうとでも考えているのだろうか。
軽く小ばかにされたように感じ、マリアは自分が焦っていくのがわかった。
マリアはゆっくりと息を吸い込むと、首を横に振った。
「……その孤児院の名前は?」
「よくある名前ですよ」
「いいから答えて」
「聖マリア孤児院」
(悪い冗談だわ)
マリアは一瞬呼吸を忘れると、音をたてて溜息をついた。
気取られぬよう取り繕うと、冷静になるように自分を言い聞かせた。
少し落ち着いたところで、マリアは言葉を繋げた。
「それは、シチリアにあるのね」
「厳密には、ありました」
「……そう」
アルベルトはマリアのあっさりとした解答に素直に驚いた様子で、しばらく思案したようだった。
「疑わない、と」
「そうね」
「貴女、イタリア出身で?」
アルベルトの言葉に動揺を隠しつつ、マリアは正直に語ることにした。
ここで嘘をつく理由が見当たらなかった。
「……ええ。私は奇しくもシチリアの出身よ」
「なるほど。御同郷者でしたか。私は噂話でしか知りませんが、突然面倒を見る大人が姿を消したそうです」
「…………」
男の言っている言葉が呑み込めず、押し黙ってしまった。
マリアが何も答えなかったため、男は一瞬俯いて答えた。
「孤児を売り、金銭を得ていましたからね」
男は吹き出すと、今度は憐れんで天を見つめた。
偽りではないだろう。
アウローラで子供の売買はなかったが、孤児を育てて戦士に変えていたことを思い返した。
おかしいのは戦争をしている世界だろう、とマリアは思った。
「要するに、私も売られた口ですよ」
マリアは喉の奥が、ひりつくほど乾いていることに、ようやく気づいた。
唾を飲み込むのがやっとだった。
言葉と共に、男が振り返った。
マリアは素直に男を目で追った。
赤毛は一見丁寧に整えられているものの、毛先が飛び跳ねている。
アルベルトは特に憔悴した様子もなく、寂しそうに微笑んでいた。
瞳は青く、情報通りの風貌だ。
「ティニアさんとは、お知り合いなのでしょう。無理に尋ねる気はありませんので、こちらの本を彼女に届けてあげてください」
アルベルトはそう言うと、腕に抱えていた本を二冊、前へ差し出した。
狼狽えたままのマリアは、全く動けなかった。
アルベルトは苦笑いを浮かべると、胸からハンカチーフ取り出し、石畳の上に敷くとその上に丁寧に本を重ねた。
アルベルトは丁寧にお辞儀をすると、そのままマリアの横を通り過ぎてしまった。
その表情は硬い笑みを浮かべているようだったが、直視は出来なかった。殺意も敵意も感じられない。
無気力。
そんな言葉が当てはまった。




