②-7 黒く、たなびきて
旧市街からマリアとティニアが住むシェアハウスの間には、それなりの距離がある。元々はミランダの会社として建てた建物だったため、旧市街からは離れていたと聞いている。
マリアとティニアの住む家は、ライン川に程近いエーニンガー通りの先にある。
その更に先にはドイツがあるが、シェアハウスはそのかなり手前だ。世間に疎いマリアにとって、それが安全かどうかはわからない。
夕方という時間帯にもかかわらず、周囲に人影はなく、ティニアの姿もない。
「お願い、間に合って。家にいて……‼」
普段はティニアとおしゃべりをして通るだけの、歩きなれた通り。
朝も二人で通勤したばかり。
話に夢中で、すぐに分かれてしまう寂しさを、短い距離であると感じていた。
それが、こんなにも遠い。
エーニンガー通りを抜け、脇にある細いリギューエートリ通りに差し掛かる。その時、長身で赤茶毛の髪の男が、視界に入り込んだ。マリアは怒りがこみ上げ、隠しきれない気配を露わにしていた。
聞いていた情報と同じく、男は紺色のロングコートを羽織っていた。何かを抱えているが、それが何かはわからない。男はすぐに立ち止まると、そのまま動きを停止させている。この気配を、マリアは知っている。
「下手に動くんじゃないわよ」
当然だが、拳銃など所持していない。
男は左手をゆっくり掲げると、右腕に抱える本を見せてきた。
「大切な預かりの本を所持しています。両手をあげるには、本を下ろす必要があります」
「そのまま上げればいいじゃない。どこに行く気なの?」
「この先のお宅です」
男の口調は落ち着いており、全く動揺を感じられない。
そればかりか、殺気など一切感じられない。
マリアからは男の背中しか見えない為、表情は伺えない。
「何の用事?」
「町でお会いしたご婦人に、本を届けてほしいと頼まれたのです。それがこちらの二冊です」
男は少し腕を緩めると、本を見せるように動いた。本の背表紙を見ることは出来ず、何の本かもわからない。適当な口実を述べているだけかもしれない。
マリアは目を細めると、再び深呼吸した。落ち着かなければいけない。
「……誰に?」
「ティニアという名の女性だそうです」
「そんなこと聞いてるんじゃないわ。誰に頼まれたのかを聞いているの」
男は少し上を見上げると、空を見つめたまま何かを考えている。男の落ち着いた仕草が、かえって嫌味に感じられた。
「名前をお伺いしておりませんでした。ザンクト・ガレンで評判のスーツがよく似合う美女でしたよ」
「そんな人は知らない」
「それは大変失礼いたしました。では、私の名前をお伝えしても宜しいでしょうか」
「は?」
男は尚も冷静な口調のまま、不気味なほど落ち着いている。
「貴女は銃口を向けるわけでもなく、敵意をそれだけ主張されている。それは捨て身であり、何が何でも警戒することを止める意思がない。間違いはございますか?」
「…………」
言い返せる言葉が見つからなかった。
マリアは手を握りしめ、歯を噛み締めた。
自分の呼吸音だけが、耳についてくる。
「貴女は素性の知れない男が、大切な女性に近づくことを恐れている。であれば、私の素性をお伝えするという事が最善ではないでしょうか」
男がマリアの方へ振り返ろうとした。
マリアは警戒し、思わず間合いを気に掛けた。
男は、アウローラを襲撃してきた眼帯の男とは違う。どちらかというと、得体のしれないアルビノの少年に似ている。
それだけではなく、少年と同じように、敵意も全く感じられない。だが、油断すれば即座に間合いを詰められるだろう。
アウローラや自分を調べる組織かもしれない。
歯を食いしばると、マリアは男へ視線を向けたまま居直った。




