②-3 前兆
その日の午後――。
花屋のぺラルゴは変わらぬ忙しい時間を過ごした。
客の出入りが落ち着いたところで、女店主ミランダは新聞を開いた。
捲られていく新聞紙の音と共に、ミランダの言葉がマリアの耳に入ってきた。
「ドイツの情勢が良くないものばかりだわ……」
ミランダの言葉に、マリアは息を飲んだ。
花束を作っていた手が止まり、視線が自然とミランダに向く。
「もう、だから言ったのに」
「でもドイツへ渡って、勉強するにはまたとない機会なのよ」
明日、ミランダはドイツに渡る。
反対していたマリアは、すでに手を尽くしていた。
それでも話は、覆らなかった。
ミランダは唸りながらも、読んでいた新聞でアイリスの花を包んでいった。ミランダは何かを言いかけ、飲み込んだように見えた。
マリアはすぐに理由を察した。ミランダは旦那の事を心配しているのだろう。
ミランダの旦那は、ミランダの事を溺愛している。
そんな旦那が、愛する妻を心配しないわけがない。マリアはミランダの旦那と共に、渡航を止めるべきだったと今更ながら思った。
「よし、こんなところね。マリア、色々ありがとう」
「ううん。本当に、気を付けて行ってきてよね」
「わかってますよ」
ミランダがドイツへ行くのは、フローリストの仕事のためだけではない。それはマリアの直感だったが、恐らく的を射ていると思われる。ティニアがドイツの情報を気にしているからだ。
それにどんな理由があるのか、マリアは彼女に尋ねることが出来ずにいた。
「やっぱり見送りしたいわ。……本当に行ったらダメ?」
「それは、なんというか……。旦那が、ちょっと、ね」
ミランダはすぐに苦笑いを浮かべた。
マリアはすぐに何のことか察し、手を掲げて見せた。
「ああ我が愛妻よ、行かないでおくれ。ずっと私の傍に……」
「もう、やめて……。本当にそうなんだから。マリアも、自分の体には気を付けてね。ティニアのこと、よろしくね」
「もちろんよ。任せて! これから迎えに行って、また一緒に肉を食らうわ」
「ふふ。そうね、また行ってらっしゃい。ティニアもいい息抜きになったみたいね」
ミランダは名残惜しそうに、がらんとなった店、ぺラルゴを下から上へ見上げた。焦げ茶色の外装はとてもおしゃれであり、一見するとカフェのような作りだ。
マリアにとっても、ミランダが戻るまで、ぺラルゴとはお別れである。
「メアリーの花露店でも、色々学べると思うわよ」
マリアの不安を感じ取ったミランダは、優しくマリアの髪をすくい取った。ミランダの不在中、マリアは知人であるメアリーの花露店に赴くことになっている。
メアリーは足が不自由だが、非常にチャーミングな女性だ。
ミランダはカートに配達の花を乗せていくと、最後に植木鉢を一つ乗せた。休業する間、花が店の中にあっても仕方ないので、余った植物は全て孤児院や教会に運ぶことになっている。これが休業前、マリアにとって最後の仕事であった。
「マリアなら大歓迎っていう、メアリーの反応には驚いたわ。頼み込むつもりだったのに」
「だってあんなに可愛い露店なんだもん。ついつい褒め倒しちゃって、気に入られちゃったのよ。私、メアリーさんもミランダさんくらい大好きよ」
「あら。嬉しいこと言ってくれるのね」
ミランダは、店の玄関にペラルゴの休業を知らせる紙を貼りだした。そして、名残惜しそうに何度も店を見つめた。
「ミランダさん、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ。貴女も、ティニアも心配なんだけれど」
休業する店を見つめ、ミランダは寂しそうに呟いた。
昨晩から続いていた雨が上がり、空は嘘のように晴れ渡っている。石畳には、所々に水たまりが出来ている。
「そこは信じてよ。上手くやるわ」
マリアはミランダに抱きついた。
マリアの声は、僅かに震えていた。
「気を付けてね。ミランダさん……」
「……ええ。マリアもね」
ミランダは何も言わず、強く抱きしめ返してくる。
ゆっくりと体を起こすと、ミランダは涙をためていた。
「それじゃあ、明日は行ってきますね」
「うん! お土産話、沢山聞かせてね!」
ミランダは何度も振り返りながら、帰路についていった。
マリアは、しばらくその場を動けなかった。
花屋ぺラルゴを、ゆっくりと見上げる。
スイスへ来て、色々なことがあった。シュタイン・アム・ラインの町は、マリアにとっては故郷と変わらない。
空は晴れているのに、胸の奥だけが、まだ濡れているような気がした。配達が終われば、今日のマリアの仕事は終わりだ。
「……さて、行きますか。お花の配達と、ティニアを迎えに!」
マリアはいつも通り、カートに花を乗せて旧市街を歩いていく。石畳に、からからと車輪の音だけが響いていた――。




