①-1 第二次世界大戦後
「おーい、マリア~!」
「うーん」
自分の名を呼ばれているのに気付き、今見ていたのは夢であったことを知る。それでも微睡みから覚めることが出来ず、マリアは再び眠りに落ちようとしていた。
時は西暦1950年。
組織・アウローラの拠点から離れて、十四年が経過しようとしていた。ここは永世中立国のスイス、シュタイン・アム・ラインだ。
あの時少女だったラーレは、年月を経て立派な大人の女性へ成長していた。あの時のことを忘れたわけではない。今も持ち物の中には、銃弾のない拳銃が隠してある。
月日が流れる度に、あの時の出来事は夢ではなかったか、と錯覚しそうになる。
スイスへ渡ったのは成り行きで、マリアの意思とは無関係だ。
出来る限りの調べを尽くしたが、アウローラのことも含めて分かることはなかった。どれだけ新聞を読み漁っても、レイスだけではなく眼帯の男やアルビノの少年の記録はない。
マリアは何も知らないあの時のまま、シュタイン・アム・ラインで暮らしている。
「どうしたの、具合悪いの?」
「あ……」
同居人の声に驚き、マリアは慌てて起き上がる。そして、時計を見て驚愕する。普段の出勤時間からもう二十分も遅れているのだ。
「そんな、私としたことが!」
鏡を見てさらに驚愕、酷い寝ぐせである。そんなマリアを心配そうに見つめる女性がいる。
共に同居している女性で、名をティニアという。歳は三十代くらいで、金髪碧眼の美女。どことなくレイスに似ていた。初めて彼女を見た時に、マリアは驚いて絶句してしまうほどだ。
しかし、口調と細かな点は別人であることを無残に指し示していた。
よく似た顔立ちだが、レイスにあったほくろはティニアにはない。髪はレイスと同じく短いストレートだ。更に透き通った瞳は特に似ていて、まさに双子に出会ったかのような気分に陥る。
ティニアをすぐに信頼したのにも、レイスに似ているからである。ティニアは心配そうにマリアを覗き込んだ。
「大丈夫? ただの寝坊?」
「大丈夫よ、ただの寝坊なの!」
「珍しいじゃん。果物のスムージー作ったから、ここに置くね。これだけでいいから、飲んでいって」
ティニアは柑橘系の鮮やかな色をしたドリンクをテーブルに置いてくれた。彼女はいつもそうだ。ほとんど無意識に近いこの気遣いが、たまらなく嬉しいのである。
マリアはティニアお手製のスムージーを流し込んだ。冷たすぎず、程よく冷やされたフルーツが、乾いた喉と心を癒していく。急いで飲み干しても咽ない程度に、酸味が抑えられている。甘く、甘酸っぱい香りが寝起きの頭を呼び覚ましてくれた。
ティニアはこういう見えない配慮を自然にやってのけてしまう。彼女にとって、この程度の気遣いは呼吸と同じなのだ。それのほとんどが無意識で、本人は世話を焼いている自覚もない。
疲れてしまわないのか不安だった。世話焼きなティニアは、マリアを詮索することもなく同居してくれていることには感謝するしかない。
「ありがとう。朝の仕事だと、私にできる事なんて限られているの。でも、ちょっとでも勉強したくて早めに起きて行ってたのに、もう花の仕入れが終わってそう……」
「そしたら花市場じゃなくて、直接お店に行った方がいいね」
マリアはすぐに着替えに取り掛かると、ティニアは部屋から出ていった。部屋のブラウスはアイロンがかかっており、ほのかに温かい。これもティニアがかけたのであろう。本当に至れり尽くせりである。
ティニアは小さな教会に隣接している孤児院で働いているが、修道女ではない。なんとか財団の所属と言っていたが、マリアはもう忘れてしまった。身分証もほとんどない状態の者も差別することなく保護していたのが、彼女たちの財団だ。
雪原で力尽きて倒れていたマリアを、ティニアや出くわした財団の者が救助してくれた。
彼女たちがいなければ、マリアが生きて生活することなど、不可能だっただろう。彼女はそれらについて特に語らない。
「わからないことだらけね」
マリアはカバンを手に持つと、コートを羽織ると出勤した。
そして、あの日に思いを馳せた――。
気付いたときには、全てが白一色だったあの日のことを。




