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視える令嬢は王太子の愛をまだ知らない  作者: itoma
第1章:池の霊と青いバラ
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08:逃走劇



「わあ……」


王立図書館に入ってすぐ、フィオナは感嘆の息をつく。

館内の中央部分は吹き抜けになっているため、一階から三階までびっしりと本が並んでいる様子がよく見える。階段の手前から見上げる景色は圧巻だった。


「俺この辺にいるから」

「うん。ありがとう」


案内役を終えたルイスは本を見ようともせず、近くの学習スペースの椅子に腰を掛けた。

フィオナは案内板を確認して、二階にある民族学のコーナーへと向かう。

館内は静寂に包まれ、時折ページをめくる音が響く。

古書のにおいがふわりと鼻をくすぐり、フィオナの心を落ち着かせた。


「あれ、こんにちは」


階段を上りきったところで長身の男性に声をかけられる。背の高さと楕円形の眼鏡を見て、フィオナはすぐにバラ園で会ったクリスだと気づいた。


「こんにちは……」

「バラ園は家の手伝いと趣味で……本職はこっちなんだ」


少しの戸惑いを見せるフィオナに、クリスは羽織っているマントを広げてみせる。フード付きの黒いマントは司書の制服である。襟元には銀色のバッジが光っていた。


「バラはもう枯れちゃったかな?」

「押し花にしようと思って……いま乾燥させてます」

「へー! いいね。ありがとう」


フィオナの答えを聞いてクリスは嬉しそうに微笑んだ。


「何か探してる本があるの?」

「イータ族のことが書かれてる本を読みたくて……」

「それなら……これとこれ……あと、こっちも参考になるかな」


フィオナの目的を聞くと、クリスはテキパキと書籍を選んでいく。高い棚にある本も、クリスの長身なら軽々と手が届いた。


「このくらいでいいかな?」

「はい、ありがとうございます」

「重たいし、カウンターまで持ってくよ」


クリスはそのまま三冊の分厚い本を手に持つ。

紳士的な対応に慣れていないフィオナは申し訳なさそうに頭を下げた。


「人文学科なの?」

「いえ、一学年です」

「あ、そうなんだ」


先ほど上った中央階段をクリスと一緒に下りていく。


「クリスさんは生物学科だったんですか?」

「うん、そうだよ。懐かしいなぁ……」


クリスは笑顔を浮かべ、吹き抜けの天井にある大きな照明を見上げる。そして足を止め、フィオナを振り返る。


「ファーノン教授は、元気かな……?」

「? はい」

「そっか……よかった」


フィオナの返答を聞くとクリスはどこか寂しげに笑い、再び前を向いた。


「?」


フィオナはクリスの反応を不思議に思いつつも、視線を1階に落とす。学習スペースの端で、黒い髪の誰かが机に伏せている。


(寝てる……)


フィオナの表情が少し和らぐ。


「あの、あとは自分で持っていきます」

「え、うん」

「ありがとうございました」


フィオナはクリスから本を受け取り、足早に階段を下りていった。



***



カウンターで本を借りる手続きを済ませたフィオナはまっすぐとルイスのもとへ向かった。


「……」


声はかけずにその顔を覗き込む。長めの前髪は横に流れ、普段は隠れている眉と瞼がよく見えた。


(前髪、邪魔じゃないのかな……)


フィオナはルイスの前髪に手を伸ばす。しかし急にルイスの瞼がパチッと開き、すぐにその手を引っ込めた。


「……終わった?」

「! う、うん」


ルイスはフィオナの挙動は特に気にせず、腕を上げて思いきり伸びをした。


「行くか」


せっかく見えたキリッとした眉が、また前髪に隠れてしまう。


(隠れちゃった……)


その一瞬だけの表情を、フィオナは名残惜しそうに目で追った。



***



「……あ」

「?」


王立図書館をあとにし、しばらく歩いたところでルイスがふと足を止めた。


「持とうか? それ」


ルイスが視線を向けたのはフィオナのバッグだった。中には三冊の本が入っていて、膨らんだ底からその重みが伝わってくる。


「これ? 別にいいよ」

「重くない?」

「重いけど……自分の荷物だから自分で持つよ」

「ふーん……」


きっぱり断ったフィオナを、ルイスは訝しげに見る。


「貴族のお嬢様は自分で荷物持たないんじゃねーの?」

「……」


聞かれてフィオナは首を傾げる。いまいちピンときていない様子だ。


「そういうの、あまりわからないの」

「まあ、ダルいよな」

「だるい……?」

「あー……めんどくさいってこと」


フィオナに言葉の意味を教えたルイスは、じっとフィオナを見つめ、後頭部をガシガシと掻いた。


「……俺、マジで平民出身だけどいいの?」


そして真剣な表情で問いかける。

ルイスが使っている言葉には、平民間で使用されるスラングが多くある。

何気ない会話が通じない度に、身分の差を実感するのだろう。


「何が?」

「こうして一緒にいるのとか……友達でいるのとか」

「うん」


フィオナは躊躇なく頷く。

しかしそれでもルイスの表情は晴れなかった。


「ルイスと一緒にいると楽しい」

「……」

「あと、ルイスが笑うと嬉しい」


信じてもらえていないと感じたのか、フィオナが畳みかける。


「だからいっぱい笑ってほし……」

「あーーもういい、もういいって」


ルイスが大きめの声でそれを遮った。


「よくそういうこと恥ずかしげもなく言えるよな……」


呆れたように言うが、その耳と首は赤い。照れているのは明らかだ。


「何考えてるかわからないってよく言われるから……言葉にするようにしてる」

(……なるほどな)


確かにフィオナは表情が豊かな方ではない。

ルイスの名前を聞いた時も、ルイスと友達になった時も、フィオナは「うれしい」と直接的に感情を表現していた。


「俺にはいいよ、そういうの」

「あ……ごめん」

「嫌なわけじゃなくて……わかるから」


表情を曇らせるフィオナに対して、ルイスは口角を上げて笑ってみせる。


(笑った……)


"どうしてわかるのか"を考えるよりも先に、フィオナはルイスの笑顔をじっと見つめた。

穏やかな雰囲気が流れ始めた、その時。


「そこの素敵なお二人!」


突然見知らぬ男が声をかけてきた。


「サルビア商会のデリックと申します。実は今、新しい紅茶の試飲会をしてまして……若い年代の方を捜していたんです!」


デリックと名乗った男は両手を擦り合わせながら満面の笑みを浮かべている。

金髪のオールバックにボルドー色のスーツ。一見身なりを整えているようだが、よく見るとスーツの光沢は抜け、顎には無精髭が散在している。鎖状のネックレスや大振りのピアスは上品さとはかけ離れていた。


「スザーヌ帝国から仕入れた紅茶で、とても甘くて美味しいんです!」

「……」

「会場はすぐそこです。美味しいお茶菓子も用意してありますよ。ああ、もちろんお代はいりません!」


デリックはふたりの反応なんてお構いなしにどんどん続けた。満面の笑顔は貼り付けたようで、どことなく圧を感じる。


(甘い紅茶……?)


フィオナは甘い紅茶に興味を示しているようだが返事はせずに、ルイスの反応を窺った。


「……コイツ嘘つきヤローだから逃げるぞ」

「え……」


ルイスはフィオナに少し近寄り、小声で言った。

予想外の言葉にフィオナは目を丸くする。


「走れる?」

「うん」

「……やっぱこれ持つ。行くぞ」

「!」


ルイスはフィオナのバッグを半ば強引に奪い取り、空いた手をガシッと掴んだ。そして合図と同時に走り出す。


「クソッ追え! あの上玉は金になる!」


デリックは途端に形相を変える。路地裏から出てきた強面の男二人も加わり、フィオナとルイスを追いかけた。



***



「はぁ、はぁ……」


フィオナとルイスは北門からアカデミーの敷地内に入ってようやくその足を止めた。

フィオナは膝に手をつき、肩を上下に揺らして呼吸を整える。


「プ……ははは!」


草の上に座り込んだルイスが、肩を震わせたかと思うと突然笑い出した。


「何でそんな足はえーんだよ」


ルイスはケラケラと笑いながら言った。

走れるかと聞いたものの、貴族令嬢の走力なんてたかが知れている……その予想に反して、フィオナはルイスのペースに最後までついてきたのだ。


「よく走ってたから……」

「変なやつ」

「!」


くしゃっと笑ったルイスの表情に、フィオナは思わず息を呑む。


(この顔すき……)

「……っだから、そういうのやめろって」


しかし、ルイスはフィオナの視線にすぐに気づいてしかめっ面になってしまった。

フィオナはハッと口を押さえる。


「く、口に出てた……?」

「……さあな」


ルイスははぐらかすようにそっぽを向き、立ち上がる。


「街に出掛ける時は誰かと一緒の方がいいよ。最近は人攫いとか物騒な事件が増えてて、あまり治安よくねーんだ」

「わかった」

「……じゃあ、また明日」

「うん。今日はありがとう」


ルイスの背中を見送ったあと、フィオナは自分の右手を見つめる。

ルイスに握られたその手は、未だにじんわりと暖かかった。




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