43:家族の融点
アナとルーファスを執務室へ送ったあと、フィオナは自室で二人を待つことにした。
ソファに座り、膝の上に小説を開いているが、視線は窓の外や時計を行ったり来たりと落ち着かない様子だ。
(ルーファス・マクニール……)
ダフネは窓際の花瓶に花を飾りながらも、内心穏やかではなかった。
突如現れた恋敵――マクニール男爵。
フィオナの頬に触れた時の優しい眼差しが、どうも引っかかる。
そして、フィオナが彼を「大事な人」と言った事実が、ずっと胸の中に渦巻いていた。
「あ」
気づけば花瓶から水が溢れていた。
ダフネは正気に戻り、差しすぎた花を抜いていく。
「そのお花、どうしたの?」
そんなダフネを見て、フィオナが尋ねた。
ダフネは一瞬だけ動きを止め、朗らかな笑みを浮かべた。
「どうしてでしょうね……私にもわかりません」
「そっか」
求婚書の山と一緒に届いたことは伏せ、さっと花瓶と窓台を拭きあげた。
何か話題を変えようと視線を泳がすと、ソファの上に青い栞を見つけた。
「その栞、素敵な色ですね」
「ルイスに貰ったの」
「!」
ぴしゃりと固まるダフネには全く気づかず、フィオナは栞を手に取り、鼻先に持っていった。
「もしかして、香り付きですか……?」
「うん。嗅ぐ?」
「は、はい……!」
ダフネはそろりそろりとソファに近づき、フィオナの背後から栞に鼻を近づけた。
ほのかに漂う、清涼感のある香り――
(ローズマリー……殿下の整髪剤……!)
ダフネはたまらず、ソファの背もたれに顔を埋めた。
「この匂い嫌い?」
「いえ! とてもいい香りでびっくりしちゃいました!」
残念そうに振り返るフィオナに、ダフネはバッと顔を上げ、全力で肯定した。
("離れてても忘れるな"ってことですよね!? ひゃあああっ)
さっきまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように昂っていく。
ソファの背もたれをバシバシと叩きたくなるのをなんとか抑え、ダフネは姿勢を正した。
「マクニール男爵とは、どういったご関係なんですか?」
この勢いに乗じて、思い切って聞いてみた。
「ルーファスは……アナの息子」
フィオナは本に栞を挟み、静かに閉じた。
「アナさん……金髪の女性ですよね?」
「うん。前に侍女長だった人だよ」
(……なるほど)
前任の侍女長がフィオナの支えであったことは、察していた。
そう思うと、先ほどのフィオナの「大事な人」という言葉も腑に落ちた。
コンコン
そこに、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
フィオナは背筋を伸ばし、期待のこもった目を扉に向けた。
入ってきたのは――ルーファス一人だった。
(油断はしない……!)
(すごく警戒されてるな……)
ルーファスはダフネの鋭い視線に一瞬怯みつつ、扉を閉めた。
「ルーファス……アナは?」
「まだ伯爵と話してる」
「そっか……」
フィオナはわずかに瞼を伏せた。
不安げに揺れる長いまつ毛を見て、ルーファスは小さく息をついた。
「母さん、またここで働きたいんだって」
「!」
フィオナがぱっと目を見開く。
「伯爵も了承してくれた」
そして、ぱちぱちと瞬きをした。
「……嬉しい」
「うん。俺も嬉しい」
顔を綻ばせたフィオナを、ルーファスは優しい眼差しで見つめた。
(その顔は、どっちなんだ……)
穏やかに見つめ合う二人の一挙手一投足を、ダフネは固唾を飲んで観察していた。
「ダフネ嬢」
("嬢"……!?)
ルーファスに呼ばれ、ダフネは肩をびくりと揺らす。
騎士として生きてきたダフネにとって、その敬称は浮いて聞こえた。
「侍女経験は長いんですか?」
「……はい」
「ダフネはロイフォードの人で、夏期休暇だけ来てくれてるの」
「なるほど」
ルーファスはダフネに対して、人当たりの良い笑顔を向けた。
「大事な話をしたいので、少し席を外してもらえませんか」
「……」
胸に手を当て、少しだけ腰を曲げる。
侍女に向けるにはあまりに丁寧な礼だったが、ダフネは頷かなかった。
ルーファスをじっと見つめる瞳には警戒心が滲み出ている。
しかし、ルーファスは笑顔を崩さなかった。
「どうしても信用ならないのなら、手を縛りましょうか?」
そして、少しおどけたように両手を差し出してみせる。
(本当に縛ってやろうかな……)
ダフネはその手首を冷めた目で見つめた。
「ダフネ、大丈夫だよ」
「……承知しました」
フィオナの一言で、ダフネはようやくその場を動いた。
「失礼します」
扉の前で一礼し、ダフネは部屋を出ていった。
――ルーファスに対して、しっかりと牽制の視線を残して。
「……はあーーー」
扉が閉まった途端、ルーファスは大きくため息をついた。
「あの侍女、圧強すぎない?」
気の抜けた表情でソファに向かい、フィオナの隣に腰をかける。
「うん。ダフネかっこいいよね」
「あー……うん、まあいいや」
ルーファスはソファの背に頭をもたれ、人差し指の第二関節を眉間にぐっと押し当てた。
昔から変わらないその癖を、フィオナはじっと見つめていた。
「何から話そうかな……」
ルーファスは天井を仰ぎ、ぼそりと呟いた。
一度瞼を閉じ、横目でフィオナを捉える。
「俺さ……嘘がわかるんだ」
「……!」
そして、先ほどと同じテンションで呟いた。
フィオナは少し遅れて目を見開く。
「って言っても真実がわかるわけじゃない。相手が嘘つくと、目の奥が痛むんだ」
ルーファスは薄く笑いながら、人差し指でとんとん、と眉間を叩いた。
確かに――フィオナの記憶の中の幼いルーファスは、いつも眉間に皺を寄せていた。
「……信じてくれる?」
「うん」
フィオナは迷いなく頷く。
ルーファスは上体を起こし、足を組んだ。
「ばあちゃんも鋭い人だったから、そういう家系なのかも」
「……」
ルーファスの祖母――鼻の横に大きなホクロのある年配の女性が、フィオナの脳裏に浮かんだ。
"私の母が……お空に行ってしまったんです"
幼い頃、アナの背後に寄り添っていたのを視たことがあった。
(ルーファスも……"祝福"を受けたんだ……)
アナの母は"愛する者"――ルーファスに能力を継承して、消えたのだろう。
フィオナはきゅ、と唇を結んだ。
「五年前……母さんが俺を連れてきたの、離婚したからなんだ」
「え……」
――知らなかった。
あの頃は、アナがそばにいてくれることにただ喜び、その事情に目を向ける余裕がなかった。
「俺がいらないこと言って、親父に隠し子がいるのがわかって……」
ルーファスは眉を寄せ、膝の上で組んだ指先に力を込めた。
窓の隙間から吹いた風で、カーテンレールが音を立てた。
「俺が……母さんの居場所を奪ってしまった」
「ルーファス……」
フィオナは首を横に振るが、ルーファスの瞳はどうしても額の傷痕を探してしまった。
「だから……」
ルーファスは組んでいた足を戻し、ふう、と深く息を吐いた。
右の掌を開き、静かに見つめる。
「実力で爵位を掴み取った」
ぐっと拳を握ると、手袋の生地が擦れる音が小さく聞こえた。
その白い手袋はよく見ると、指先がくすんでいた。
(ルーファスはきっと……受け入れてくれる)
フィオナはスカートの生地を摘み、唾を飲んだ。
「ルーファス、私も……っ」
「あー、いい。いいよ、言わなくて」
フィオナの震えた声を、ルーファスが優しく遮った。
「何か視えてんだろうなってことで、理解してるから」
「!」
ルーファスはそう言って、フィオナの頭をぽんぽんと撫でた。
その手はすぐに離れてしまったが、しばらくつむじの辺りがじんわりと温かかった。
その温もりは、父に抱き上げられた時のくすぐったさと少し似ていた。
「この前、"償いはいらない"って言ってくれたけどさ……」
ルーファスは柔らかくフィオナに笑いかける。
「まあ、便利な能力だし……一生コキ使っていいよ」
つむじに残っていた温もりが、胸を通って、手の先、足の先まで広がっていく。
「コキは、使わないけど……」
フィオナは腿の上で指先を擦り合わせ、小さく口を開いた。
「お兄ちゃん」
同時に、心地よい風が吹き込む。
花瓶の中で、花びらが触れ合った。
「……みたいに、思っていい?」
フィオナは頬を赤らめて、ルーファスの反応を窺った。
「ちょ……待って、うわ、反則……」
ルーファスはこれでもかというほど目を丸くしたあと、再びソファの背にもたれかかった。
にやける口元を右手で隠し、顔の中心に力を入れた。
「そ、そうだな、うん。お兄ちゃんって呼んでいいよ」
「それはいい。ルーファスって呼ぶ」
「何でだよ!」
強くつっこみながらも、ルーファスは大きく口を開け、嬉しそうに笑っていた。
***
執務室――
「本当に、申し訳なかった」
アドルフは机の前に立ち、アナに向かって深く頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください……!」
アナは慌てて手を伸ばす。
「あの時旦那様は遠くに出征されてましたし……」
「いや、言い訳にはならない。メリンダの言葉を鵜呑みにしてしまった。償いをさせてくれ」
アドルフの頑なな態度を見て、アナは少し呆れたように息をついた。
「それなら、復職させていただくことで十分です」
明るい口調で告げると、ようやくアドルフは頭を上げた。
アナは柔らかく目を細め、窓の外を一瞥する。
思い出すのは、か弱く震える幼い声――
"フィオナのこと、きらいにならない……?"
あの日優しく抱き寄せた少女は、十二年後、強く抱きしめ返してくれた。
「フィオナお嬢様は……素敵な女性になりましたね」
「……ああ」
フィオナの触れた背中が、じわりと熱を帯びたような気がした。
「……アナ」
アドルフは執務机の椅子に座ると、机の上で指を組んだ。
「ひとつ、相談がある」
「はい……」
その神妙な面持ちに、アナはごくりと息を飲む。
「アレは、どうしたらいい?」
「……?」
アドルフの視線を辿ると、ローテーブルの上に大量の手紙が山積みにされていた。
アナは開封済みの手紙を一通取り上げる。
「まあ……」
そこにはフィオナの美貌に対する賛辞と、息子の自慢話、そしてお互いの家の発展を願う言葉が並べられていた。
「婚約者を……捜してやった方がいいものなのか……」
アドルフの顔に深く影がさす。
組んだ指先は痛そうなほど肌に食いこんでいた。
(嫌そう……)
アナはこっそりと笑った。
「フィオナお嬢様は……志があってアカデミーに入学されたのだと思います」
手紙を封筒にしまい、そっとテーブルの上に戻す。
「私は、急がなくていいと思いますよ」
「そうか……そうだな」
その言葉を聞いた途端、ふ、とアドルフの力が抜けた。
指の跡が白く残る手を、机の端のガラス瓶に伸ばす。
「きみも食べるか?」
「……いただきます」
その中から一つキャンディを取り出すと、瓶の開け口をアナに向けた。
「キャンディ……今でも買ってるんですね」
「……ああ」
アナは手に取ったキャンディを、懐かしそうに見つめた。
*
*
*
十四年前――
*
*
*
「うわあああん」
二歳のフィオナが泣きじゃくる。
小さな手は必死にエディットのスカートを掴んで離さない。
「フィオナ……」
「やーーっ」
アドルフはしゃがんで目を合わせようとするが、フィオナはエディットの後ろに隠れてしまった。
「フィオナ、パパよ」
エディットは困ったように眉を下げる。
アナも少し離れた場所から、その様子を微笑ましく見守っていた。
「キャンディ食べるか」
アドルフはたじろぎながらも、手元の缶からキャンディを一粒取り出した。
「……」
フィオナはひょこっと顔を出し、きらきらと輝くキャンディをじいっと見つめた。
「あなた、喉に詰まらせたら大変だわ」
「そ、そうか」
エディットに言われ、アドルフは慌ててキャンディを口に含んだ。
「……」
フィオナの丸い瞳に、ぷくっと膨らんだアドルフの頬が映る。
「えへへ」
フィオナがふにゃりと笑った。
「パパのおかお、おもしろい!」
「!」
ぴと――
フィオナの小さな手が、アドルフの頬に触れた。
*
*
*
「……」
アドルフはほんの少しだけ口角を上げた。
甘いキャンディは、口の中で小さくなり、静かに消えていった。




