42:懐かしい香り
翌日。
皇宮をあとにした一行は、夜遅くに伯爵邸に到着した。
使用人たちも寝静まる中、アドルフが真っ先に向かったのは自室ではなく執務室だった。
椅子には座らず、机の内側から右端の引き出しをじっと見つめていた。
「……」
深く息を吐いたあと、引き出しの取手を掴み、ゆっくりと引く。
木材の軋む音が、やけに大きく響いた。
中から細長い木箱を取り出し、少し震える手で蓋を開けた。
オパールのネックレスがアドルフの瞳に映る。
ツヤも、輝きも――あの日と全く変わっていなかった。
(エディット……)
アドルフは眉を寄せ、目を閉じる。
娘の温もりが、まだ胸に残っているようだった。
月明りの下、オパールの奥には柔らかな赤が宿っていた。
***
翌朝――
「フィオナお嬢様は?」
エミナが開いた扉からひょこっと顔を出した。
フィオナの部屋を掃除していたダフネは首を横に振る。
「厩舎に行ったよ。どうしたの?」
尋ねると、エミナは口元を緩ませ、ダフネに歩み寄った。
「これ見て!」
そして、胸に抱えていた新聞をダフネの目前に広げてみせた。
大きな見出しがダフネの目に入る。
"帝国を揺るがす三角関係
ベアトリクス卿vsマクニール男爵
深窓の令嬢の心はどちらに!?"
公的な新聞ではなく、出版社が独自に出しているゴシップ紙のようだ。
(ルイス殿下ですけど!?)
ダフネはカッと目を見開き、紙面の両端を掴んだ。
"マクニール男爵は令嬢の髪を優しくかき分け……"
"ベアトリクス卿は熱のこもった瞳で令嬢を見つめ……"
大げさな煽り文句に、ダフネの手がわなわなと震える。
紙面にクシャッと皺が寄った。
「社交界のツートップからアプローチされるなんて……!」
一方、エミナは両手を頬に添え、うっとりと空を仰いだ。
「ダフネは何か聞いてる?」
「……なーんにも!? フィオナお嬢様はぜんっぜん、気になってないみたい」
ダフネは乱雑に紙面を畳み、エミナへ返した。
「私はベアトリクス卿がお似合いだと思うわ!」
エミナはキラキラと目を輝かせる。
その胸に抱かれた紙面は、またくしゃりと音をたてて小さくなった。
「家柄も顔立ちも人柄も、全てがトップレベルだもの」
「いやいや、フィオナお嬢様はもっと上を目指せると思う」
「帝国にベアトリクス卿以上の男性はいないよ? 皇太子殿下はまだ五歳だし」
(ロイフォードの王太子がいるの! ……とは、言えない……!)
ルイスの存在は明かせない。
ダフネはギリリと奥歯を噛んで、言葉を飲み込んだ。
「あのー……」
そこに割り込む控えめな声。
扉の先で、リネットが部屋を覗き込んでいた。
「エミナさんかダフネさん、どちらか一緒に来てもらえませんか? 一人で旦那様のところに行くの怖くて……」
「すごい手紙の量ね」
リネットが持つトレーの上には、山積みの手紙が乗っていた。
「待って、これ……」
ダフネが駆け寄り、封筒を一つずつ確認する。
色とりどりの封蝋。そこに刻まれた家紋は全て異なり、香りがついているものもある。
「実は花束もたくさん届いてて……まだ玄関にあるんですけど……」
ダフネは一つの答えに辿り着いた。
「求婚書……?」
「「!」」
エミナとリネットもハッとし、手紙の山をまじまじと見た。
帝国中の未婚男性、全員から来てるんじゃないかという量だ。
「す、すごい……」
「わあ……」
リネットが呆然と呟き、エミナが感嘆の息をつく。
(殿下……うかうかしてられませんよ……!)
ダフネだけが肩を震わせ、焦りを露わにしていた。
***
侍女たちが盛り上がっている頃、フィオナは――
「こんな感じで合ってる?」
厩舎の前で、馬にブラシをかけていた。
「は、はいッ!!」
問いかけられた騎士見習い、マルクは背筋をビシッと伸ばした。
彼はいつも、馬の世話をしながら早く剣を握りたいと演習場を見つめていた。
しかし今だけは、稽古中の先輩騎士たちがこぞって羨望の眼差しを向けている。
(う、美しい……)
白いシャツと黒いズボン、そして無造作にまとめたポニーテール。
シンプルな装いだったが、その透明感に、気づけば釘づけになっていた。
フィオナが馬の背中をそっと撫でると、馬は甘えるように鼻先を擦り寄せた。
「馬は戻した方がいい?」
「いえッ自分がやります!」
ブラッシングを終え、フィオナはタオルで手を拭った。
「……名前は?」
「マルク・アイゼンベルクと申します!」
「教えてくれてありがとう、マルク」
フィオナが小さく頭を下げた瞬間、ピシリと空気が固まった。
(名前呼び!?!?)
マルクはしばらくその場から動けなかった。
フィオナは固まるマルクを背に、玄関へと向かう。
馬の体温が残る掌を見つめ、ぱちぱちと瞬きをした。
「……?」
ふと視線を上げると、玄関前に人影が見えた。
姿勢良く立つ男性がこちらを向く。
「……ルーファス?」
フィオナが名前を呟くと、ルーファスは小さく手を振った。
トサ――
ルーファスの後ろで、何かが崩れ落ちた。
「う……っ」
ルーファスが一歩横にずれると、膝をつき、両手を顔で覆った女性が目に映る。
「母さん……」
ルーファスは眉を下げ、女性の背中をさすった。
「……!」
太陽の光を柔らかく反射する、淡い金髪。
「フィオナお嬢様……」
少し下ろした手から、目尻の下がった茶色い瞳が垣間見えた。
「アナ……っ」
フィオナは無意識に駆け出していた。
アナも、ルーファスの手を借りて立ち上がり、よろよろとフィオナに歩み寄った。
「アナ!」
アナが両手を広げると、フィオナは迷わずそこに飛び込んだ。
「ああ……大きくなって……ッ」
アナはぼろぼろと涙を溢し、フィオナの髪に頬を擦り寄せた。
ほのかな石鹸の香りが、フィオナの鼻をくすぐる。
その懐かしさにフィオナは目を細め、アナの服をぎゅっと掴んだ。
瞬きをした瞬間、一粒だけ涙がこぼれ落ちた。
「元気でよかった……」
「っ……」
噛み締めるように呟いたフィオナの言葉に、アナは唇を震わせた。
「あー……コホン」
熱い抱擁を交わす二人に、ルーファスが控えめに咳払いをした。
「大事な話があって来たんだ」
「そ、そうなんです……」
わずかに平静を取り戻したアナは身体を離した。
が――
「うっ……フィオナお嬢様ぁぁ……」
フィオナと目が合った途端、またくしゃりと顔が歪んでしまった。
「キリがないな」
呆れたように笑ったルーファスが、アナにハンカチを渡した。
「すみません、ちょっと落ち着きますね……」
背を向けたアナを優しく見つめたあと、フィオナはルーファスを見上げた。
「ルーファス……ありがとう」
「……俺は何もしてないよ」
ルーファスは薄く笑い、涙の粒が残るフィオナの頬に手を伸ばした。
白い手袋に水滴が染み込んでいく。
フィオナは目を瞑りながらも、少しくすぐったそうに肩を動かした。
その時――
「!」
ルーファスの背筋に冷たいものが走る。
「お客様ですか?」
振り返ると、玄関前に侍女――ダフネが立っていた。
花束を手に笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
握られた茎はしなり、悲鳴をあげているようだった。
「ルーファス・マクニールと申します」
ルーファスは怯むことなく笑顔を繕い、頭を下げた。
その名に、ダフネの眉がぴくりと反応する。
「ロートレック伯爵にお取次ぎいただけますか?」
屈託のない笑みに、丁寧な言葉遣い。非の打ち所がなかった。
しかし、ダフネは即答しなかった。
「ダフネ、お願い」
そんなダフネを、フィオナがまっすぐと見上げる。
「ルーファスもアナも……大事な人なの」
「!?」
ダフネの頭の奥に、ガツンと衝撃が走る。
"大事な人なの"――フィオナの言葉が、脳内で何度も反響した。
「どうぞ、お入りください……」
ダフネは力ない声で、三人を中へと促した。




