41:静かな抱擁
翌日、謁見の間――
「……本当に、それでいいのだな?」
張り詰めた空気の中、皇帝の言葉が重く響いた。
「はい」
アドルフは玉座の前に、片膝を立てて跪いていた。
「我はそなたの忠誠心を疑ってなどいない」
アドルフの頭を見下ろしながら、皇帝は小さく息をついた。
「公の場で気を失い、帝国の剣としてあるまじき姿を晒しました」
アドルフは綺麗に磨かれた大理石の床を見つめながら話す。
あの日の不甲斐なさに、思わず膝の上の手に力が入った。
「褒賞は、辞退します」
「……わかった」
アドルフはもう一度、深く頭を下げた。
***
離宮に戻ってきたアドルフは、閑散とした廊下を歩いていた。
「……」
窓から覗く太陽の眩しさに目を細め、足を止める。
陽の光の下で、アドルフは自分の掌をじっと見つめた。
ぐっと握り、また開く。
思い通りに動く四肢――当たり前のことに、ひどく安心した。
(あの時……"何か"に身体を乗っ取られたようだった……)
アドルフの顔がくしゃっと歪む。
一瞬でも気を抜いていたら、家族を失っていたかもしれない。
奥歯を強く噛んだ、その時――
"お父様……大丈夫です"
フィオナの凛とした声が鼓膜の奥で響いた。
続いて蘇るのは、凛とした薄紫色の瞳と、温かな体温。
アドルフは手を下ろし、再び歩き出した。
迷いなく目指す先は、フィオナが眠る部屋。
「!」
ちょうど部屋から出てきたダフネがアドルフに気づき、頭を下げた。
「フィオナは?」
「先ほど目を覚まされました。診察も問題ないとのことです」
「そうか」
アドルフは少しだけ表情を和らげ、固めていた拳を解いた。
「少し、二人で話したい。席を外してくれ」
「承知しました」
ダフネは再び頭を下げ、去っていった。
アドルフは扉の向こうにいる娘を思い、息を整える。
どんな真実でも、受け止める覚悟だった。
コンコン
ノックをすると、中から「どうぞ」と小さく聞こえた。
扉を押し開け、中に入る。
「!」
フィオナはソファに座っていた。
血色の良い顔を確認して、アドルフの眉がわずかに下がった。
「具合はどうだ?」
「大丈夫です。お父様は……」
「問題ない」
アドルフは答えながら、フィオナの向かいのソファに腰を下ろした。
フィオナは視線を落とし、スカートの生地をぎゅっと掴んでいた。
「フィオナ」
そんなフィオナを、アドルフは優しく呼ぶ。
「ありがとう」
フィオナの瞳が揺れる。
恐る恐る視線を上げた先には、穏やかな父の顔があった。
「俺を、救ってくれたんだろう?」
フィオナは一瞬開いた唇を、すぐに結んでしまった。
――言えない。
真実を知った父に拒絶されることが、何よりも怖かった。
「死んだ者が、視えるのか?」
確信を含んだ問いかけだった。
フィオナはヒュ、と息を飲む。
心臓がざわざわと騒ぎ始め、それに合わせて視界が揺らぐ。
「フィオナ」
「!」
チェロの弦を弓で引いたような、低く柔らかい声に、フィオナの焦点が呼び戻される。
まっすぐに向けられた紺色の瞳には、恐れも拒絶もない。
深く、揺るぎないその眼差しを見ていると、胸を支配していた淀みが徐々に溶けていく。
「……はい」
フィオナは一度だけ、静かに頷いた。
窓の外で、ちちち、と小鳥がさえずった。
「……そうか」
アドルフの表情はいつもと変わらなかった。
「いつからだ?」
フィオナの肩の力がすっと抜ける。
心臓は変わらず速く脈打っていたが、締め付けられるような感覚はなくなっていた。
「小さい頃から……視えてました」
アドルフは眉を寄せ、膝に置いた手にぐっと力を込めた。
ズボンに皺ができ、裾が少し上がる。
握り潰したかったのは、壊すことを恐れて歩み寄らなかった、過去の自分だった。
「恐怖を隠すのは……辛かったろう」
「っ……」
フィオナは唇の裏を噛んだ。
「もし今後、今回のようなことがあったら……教えてほしい」
口元が震えて、声が出ない。
「一緒に……越えていこう」
瞬きをしたのと同時に、一粒の涙が溢れ落ちた。
頬を伝い、顎のあたりで消える。
涙の跡が、ひんやりと冷たかった。
「……」
アドルフは立ち上がり、ソファの脇に立った。
両手を後ろで組み、ごくりと息を飲む。
どこか緊張した様子のアドルフを、フィオナは不思議そうに見上げた。
「……抱きしめていいか」
「!」
フィオナは目を見開いたあと、何度も頷いた。
アドルフはぎこちなく両手を広げる。
くしゃりと、フィオナの顔が歪んだ。
唇を強く結び、奥歯を噛む。
震える足で、一歩ずつ、ゆっくりとアドルフへ歩み寄っていく。
アドルフの厚い胸に寄り添うと、背中に優しく腕をまわされた。
(あったかい……)
ぴたりと頬が密着する。
ドクン、ドクン、という少し速い心音に、ひどく安堵した。
「う……」
肩が揺れ、小さな嗚咽が漏れた。
「! 苦しかったか?」
思わず手を離すアドルフ。
フィオナはアドルフの胸板に額を押し付け、首を横に振った。
そして震える手で、縋るように、軍服の硬い生地を握り締めた。
「……」
先ほどよりも強く、抱きしめられた。
手を解き、そっと腕を背中にまわす。
溢れ出る涙は、厚い生地へと吸い込まれていく。
そこにある力強い鼓動と確かな体温が、一人ではないと証明してくれた。




