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視える令嬢は王太子の愛をまだ知らない  作者: itoma
第4章:ロートレック伯爵家
41/45

40:名を呼ぶ



翌日――


フィオナは一人、バルコニーに置かれた椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。

テーブルには紅茶が用意されてあるが、全く減っていない。


(お父様……)


瞼を伏せ、父を思う。

無意識に手に力が入り、指先が白くなった。

洗練された庭園の美しさも、今のフィオナの思考に割り込むことはできなかった。


「フィオナお嬢様」


俯くフィオナの肩に、ダフネがそっとストールを掛けた。


「雨が降りそうです。中に入りましょう」

「……うん」


空に広がる灰色の雲を一瞥し、フィオナは立ち上がった。


中に入ると、シダーウッドの深みのある香りが鼻腔を満たした。

アンティークの家具に、有名画家の絵画――その豪奢さは、来賓を迎える皇宮の離宮にふさわしいものだった。


「ダフネは少し休んでて」

「しかし……」

「少し顔を見てくるだけだから」

「……はい」


フィオナはダフネをソファに促し、まっすぐと扉へ進んだ。

扉の前には、皇室の紋章を着けた騎士が一人、姿勢よく立っている。


「お父様の部屋に行ってもいいですか?」

「どうぞ」


騎士は浅く一礼し、扉を開けた。

扉の外に立っていた別の騎士にも会釈をし、その横を通り過ぎる。

アドルフが眠る部屋は、階段の奥にある。


(憑依は……されなかった……)


ボルドー色の絨毯を踏みしめながら、昨夜の光景を思い浮かべる。

アドルフが倒れたあと、霊は悔しそうに地団駄を踏んでいた。

その場は「体調不良で倒れた」ということで収められ、霊の謀略は失敗に終わった。

しかし――アドルフは、未だに目を覚ましていない。


「っ……」


最悪の結末が脳裏によぎる。

フィオナは無意識に歩くペースを速めていた。


「面会をお願いします」


扉の前に控える騎士に早口で伝えた。

騎士は一瞬の躊躇のあと、ノックをしてからゆっくりと扉を開けた。


「フィオナ嬢!」


空気を揺らすような豪快な声が聞こえた。

中には、ヴィクトルと見知らぬ男性が立っていた。


「初めましてフィオナお嬢様。私、サントレの領主、モーリス・サントレと申します」

「初めまして」


モーリスと名乗った男性は胸に手を当て、深く頭を下げた。

整えきれていない髪が、はらりとこめかみにかかった。


「どうぞお掛けください」


モーリスがベッド脇の椅子を引く。


「ありがとうございます」


フィオナがそこに座ると、三人の視線は自然とベッドに集まった。

アドルフは目を閉じ、静かに横たわっていた。

小さく聞こえる呼吸の音に合わせて、胸元が上下する。

その様子を見て、フィオナは少しだけ肩の力を抜いた。


「なに、すぐに目を覚ましますよ」

「外傷もなく、病気の兆候も見られないとお医者様が言っていました」


ヴィクトルとモーリスの励ましに、フィオナは力なく笑う。

今はうまく表情を取り繕えなかった。


『早く目を覚ませ……今度こそ、乗っ取ってやる……』


ベッドを挟んで向かい側――鎧を着た霊が、獲物を狙う獣のような瞳でアドルフを見下ろしていた。


(させない……)


フィオナは口を結び、再び肩を強張らせた。


「フィオナ嬢……」


そんなフィオナに、モーリスが優しく声をかけた。


「伯爵が回復し、こちらも落ち着いたら……ぜひご家族でサントレにいらしてください」

「……ありがとうございます」


小さく頭を下げると、一瞬こめかみの奥がズキリと痛んだ。


『アドルフの身体を奪ったら、まずはお前だモーリス……!』


霊が、血走った目をモーリスに向けていた。


『嬲り殺してやる……お前の息子のようになぁ』


ぴくりと、フィオナの眉が震えた。

フィオナは改めてモーリスを見上げる。

頬は痩け、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。

食事も睡眠も、十分にとれていないのだろう。


「父は……どんな相手と戦ったんですか?」


フィオナは膝の上で拳を強く握り、尋ねた。


「……サントレの隣に領地を持つ、サディアス・バイアットという男です」


唇を震わせるモーリスの代わりに、ヴィクトルが答えた。


「バイアットとは半年前に資源協定を結んだのですが……」


続いて、モーリスが言葉を詰まらせながら話し始めた。


「サディアスは皇帝の名を騙って、一方的に協定内容を書き換えていたのです……」

「我々皇室騎士団も派遣されたが、サディアスは人質をとって籠城……そこで、アドルフに出征要請を出したんだ」

「……」


フィオナは眉間に皺を寄せる。


『あと少しだった……この男さえ来なければ……!』


霊の怨念が強くなればなるほど、植物の根が張るように、頭全体に鈍い痛みが広がっていった。

フィオナは歯を食い縛り、耐える。

この程度の痛みに、負けるわけにはいかなかった。


フィオナはもう一度霊を盗み見る。

血塗られた鎧に、アドルフとモーリスに対する執着――


(この霊の名は……多分、サディアス・バイアット……)


フィオナは深く息を吐き、呼吸を整えた。

霊のフルネームが持つ意味を、今一度噛み締める。


「アドルフは……サディアスを討つと、祝杯もあげずに帰っていったよ。何故だと思う?」

「……?」


フィオナが首を傾げると、ヴィクトルは穏やかに笑った。


「"娘が帰省している"と言っていた」

「!」


その言葉を聞いた瞬間、目の奥がじわりと熱を孕んだ。


「きっと、フィオナ嬢に一刻も早く会いたかったんだろうな」


フィオナは唇をきゅ、と結ぶ。

ぽつりぽつり――小さな雨粒が、窓ガラスを叩いた。



***



ヴィクトルとモーリスが部屋を去ったあと、部屋にはアドルフの規則正しい呼吸と、小雨の音だけが響いていた。


「……」


フィオナはアドルフの厚い掌を両手で包んだ。

傷だらけの肌を撫でる。指の付け根には硬いマメがいくつも重なっていた。

脱力した腕はずっしりと重たい。


"フィオナ……"


ふと、か細い声が蘇る。

脳裏に浮かびあがってきたのは、母の最期の瞬間――


(何もできずに失うのは……嫌だ……)


フィオナはその光景を振り払うようにぎゅっと目を瞑り、アドルフの手を握りしめた。


『早く目を覚ませ、アドルフ……』


霊――サディアスは、依然としてアドルフのそばに立ち、憑依の隙を待ち構えていた。


『この娘も、その手で屠ってやる……お前の絶望した顔が楽しみだ』


喉の奥で笑うサディアスを、フィオナは静かに見上げた。

視線が交差する。


『まさか……俺が視えているのか……?』


まっすぐと見据えてくる薄紫色の瞳に、サディアスは片眉を上げた。

フィオナが小さく口を開いたその時――

アドルフの指先が、ぴくりと動いた。


「フィオナ……」

「お父様……!」


薄く開いた紺色の瞳が、フィオナを捉える。

フィオナは椅子から立ち上がり、アドルフの顔を覗き込んだ。


「もっと……」


アドルフは、まるでガラス細工に触るかのように、そっとフィオナの頬を撫でた。


「愛していると、伝えれば……よかった……」


硬いマメが肌を擦り、少しだけ痛かった。

しかしフィオナはその手が離れてしまわないように、自分の手を重ねた。


『さあ、身体を寄越せッ……!!』

「お父様……大丈夫です」


フィオナはアドルフの手をベッドの上に優しく戻し、霊に向き合った。


「サディアス・バイアット」


そして、凛とした声でその名を呼ぶ。


『なッ……!?』

「……?」


サディアスは目を見開き、アドルフはフィオナの精悍な顔を静かに見上げた。


『まさか……やめろ……』


サディアスは顔を歪ませ、後ずさった。

一瞬、雨音が遠のく。


「あるべきところに、還りなさい――」


淡い光がじわじわとサディアスを覆う。

その光の粒に導かれるように、サディアスの輪郭が崩れていった。


『やめろおおおお!!』


耳をつんざく断末魔に、フィオナは思わず目を瞑る。


「……」


再び目を開けた時、サディアスの姿は消えてなくなっていた。


「いったい……」


アドルフがゆっくりと上体を起こす。

その姿を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れたような気がした。

視界がふっと、白く霞む。


「フィオナ……!」


倒れ込んだフィオナの身体を、アドルフがしっかりと抱きとめた。


窓から薄く光が差し込み、空中に舞う塵がチカチカと光った。



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