39:崩れかけた英雄
ワルツの調べに合わせて男女が優雅にステップを踏む。
煌びやかなシャンデリアに照らされる大広間には目もくれず、フィオナは二階の回廊で足を止め、小さく息を切らしていた。
(いない……)
辺りを見渡すが、マクニール男爵の姿は見当たらない。
フィオナは無意識に額の傷に触れていた。
痛むわけでもないし、普段は前髪に隠れていて全く気にならない。
しかし、今は少しだけそこが疼くような気がした。
「……!」
窓の向こうに、揺れる茶髪を見つけた。
フィオナは深く息を吐いてから、テラスへと続くドアに手をかけた。
「ルーファス……!」
「!」
五年ぶりにその名前を呼ぶと、マクニール男爵――ルーファスは、ぴくりと肩を揺らした。
「……思い出してくれたんだ」
振り返ったルーファスは、眉を下げて笑っていた。
先ほどまでの紳士的な姿とは一転して、フランクな態度だった。
「前髪上げてるから、すぐわからなかった」
「ああ……社交の場では上げるようにしてるんだ」
ルーファスは整髪料で整えた前髪を撫で、手すりから身体を離した。
冷たい夜風が、フィオナの前髪をかき分ける。
小さな傷痕を視界に映したルーファスは、苦しそうに眉を寄せた。
「申し訳ありませんでした」
そして、深く頭を下げる。
「頭、上げて……」
フィオナは戸惑いを見せつつ、もう一歩ルーファスに近寄った。
「傷……残っちゃったんだな」
「大丈夫だよ。見えないところだし……」
フィオナは無意識に前髪を整えた。
脳裏に浮かぶのは、幼い日のルーファスの顔ばかりだった。
断片的だった記憶が、一本の線で繋がっていく。
あの日は、ルーファスと一緒に厩舎に向かっていた。
きっかけは、「馬に触ってみたい」と溢したフィオナの言葉だった。
"ルーファス、やっぱりやめよう……"
フィオナが突然立ち止まる。
"……何で?"
"わ、私、お部屋で本読みたい"
厩舎の入り口に、血まみれの男の霊が立ち尽くしていたからだった。
ギロリ――鋭い眼光がこちらを向く。
"ルーファス……っ"
"嘘つき!"
ルーファスに触れようと伸ばした手が、振り払われた。
フィオナはバランスを崩し、転倒してしまった。
たまたまそこに鋭利な石があって、たまたま血の出やすい場所に当たってしまった――
それだけのことだったのに、気付いた時にはルーファスもアナも、屋敷を出ていくことになっていた。
「あの時は俺もガキで……」
ルーファスはふと、月にかかった雲を見上げた。
「母さんを取られるんじゃないかって、余裕がなかったんだと思う」
薄雲が月を覆う。
ルーファスに向かって伸びるフィオナの影が、ワントーン濃くなったような気がした。
「俺は、何をしたら償える?」
ルーファスの真剣な瞳がフィオナを見据える。
求めたのは赦しではなかった。
"罪を裁かないのは、優しさではない"
フィオナの脳裏にアドルフの言葉が蘇る。
(ルーファスのは……罪じゃない)
フィオナはすぐにそれを打ち消した。
「私が嘘つきなのも……アナの時間を奪ってたのも、事実だと思う」
フィオナは背筋を伸ばし、まっすぐと視線を返した。
「だから、償いはいらない」
同情でも遠慮でもない――フィオナの確かな意志だった。
ルーファスが肩の力を抜いたのと同時に、ドアの隙間から漏れていた音楽のテンポが変わった。
三拍子のワルツから、二拍子のポルカへ。
「……ありがとう」
ルーファスはどこか吹っ切れたように笑った。
薄く開けた唇の隙間から、白い歯が覗く。
その笑い方は、ルーファスの母――アナによく似ていた。
「アナは……」
「元気だよ」
ルーファスはフィオナが言い終わる前に答えた。
「今は大衆食堂で働いてる」
「そっか……」
フィオナが安堵の息をついた、その時――
音楽が鳴り止んだ。
フィオナとルーファス、二人の視線が窓に向く。
「……行った方がいいかもな」
「うん」
***
会場内では誰もが動きを止め、玉座へと目を向けていた。
そこには立ち上がった皇帝と、その前に片膝を立てて跪くアドルフの姿があった。
「アドルフ・ロートレック……此度の出征において示した勇気と忠節、まこと見事であった」
静寂の中、皇帝の威厳ある声が響く。
「サントレはその剣によって守られ、多くの命が救われた。その功を称え、勲章を授ける。併せて、金百枚を下賜しよう」
皇帝が右手を挙げると、後ろに控えていた侍従二人が前に出た。
手に持つトレーの上にはそれぞれ、宝石で装飾された勲章と、山積みにされた一部の金貨が乗っていた。
「すげー……」
二階にまで届く強い輝きに、隣に立つルーファスが呆然と呟いた。
「面を上げよ」
皇帝が勲章を手に取ったあと、沈黙が長く続いた。
アドルフが、微動だにしない。
「どうされたのかしら……」
周囲がざわつき始める。
「……!」
フィオナは目を見開き、手すりを強く掴んだ。
凝視する先は、アドルフの背後――
『ハッ……ハハハ!』
高らかに笑う、鎧を纏った男の霊だった。
『さあアドルフ・ロートレック……身体を寄越せ……』
霊がアドルフの背中に足を踏み下ろすと、つま先がその中に消えていった。
「あ……!」
フィオナは思わず声を上げ、ルーファスがちらりと視線を向けた。
『この手で皇帝を斬り、お前は全てを失うのだ! 富も! 名声も! 家族も!』
「う……」
霊の膝までが吸い込まれる。
アドルフは胸に当てていた手を床につき、呻き声を漏らした。
皇帝が眉間に皺を寄せる。
背後にいた騎士たちが前に出てきた。
会場内のどよめきは、波紋のようにどんどん広がっていった。
「お父様……っ」
フィオナは走り出していた。
スカートの裾を高く持ち上げる。
はしたないと言われようが、今は一刻も早く父のそばに駆けつけたかった。
耳元でイヤリングが激しく揺れ、光が乱れて散った。
***
「う……」
アドルフは思わず床に手をついた。
視界が歪む。
頭の奥を揺らされているような感覚だった。
(動かない……)
腕に込めた力は、どこか別のところに吸収されているかのように、虚しく消えていく。
「体調が優れないのかしら……?」
「大丈夫か……?」
声の内容は届かないが、空気のざわめきは肌で感じていた。
具合が悪いわけでも、身体が痛むわけでもない。
ただ、得体の知れない"何か"が侵食してくるような気がして、酷く不快だった。
(早く……立ち上がらなければ……ッ)
アドルフは奥歯を強く食いしばった。
このままでは、皇帝に背く意思があると捉えられてしまう。
帝国を代表する騎士として、そして家長として、屈するわけにはいかなかった。
「……!?」
ドクン――
一瞬、アドルフの心臓が大きく脈打った。
「きゃあ!?」
甲高い悲鳴を皮切りに、会場が騒然とする。
皇帝を庇うように騎士二人が前に出て、こちらに剣先を向けていた。
――アドルフの右手が、剣にかかっていた。
刃が鞘を擦る。
刀身に映った瞳は、酷く充血していた。
「お父様!!」
喧騒の中、フィオナの声だけがはっきりと聞こえた。
(フィオナ……!)
アドルフは唇を強く噛み、剣を鞘へと押し戻した。
ドサ――
アドルフの屈強な身体が、崩れ落ちた。
唇から滲んだ鮮血が、大理石の床にじわじわと広がっていった。




