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視える令嬢は王太子の愛をまだ知らない  作者: itoma
第4章:ロートレック伯爵家
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39:崩れかけた英雄



ワルツの調べに合わせて男女が優雅にステップを踏む。

煌びやかなシャンデリアに照らされる大広間には目もくれず、フィオナは二階の回廊で足を止め、小さく息を切らしていた。


(いない……)


辺りを見渡すが、マクニール男爵の姿は見当たらない。

フィオナは無意識に額の傷に触れていた。

痛むわけでもないし、普段は前髪に隠れていて全く気にならない。

しかし、今は少しだけそこが疼くような気がした。


「……!」


窓の向こうに、揺れる茶髪を見つけた。

フィオナは深く息を吐いてから、テラスへと続くドアに手をかけた。


「ルーファス……!」

「!」


五年ぶりにその名前を呼ぶと、マクニール男爵――ルーファスは、ぴくりと肩を揺らした。


「……思い出してくれたんだ」


振り返ったルーファスは、眉を下げて笑っていた。

先ほどまでの紳士的な姿とは一転して、フランクな態度だった。


「前髪上げてるから、すぐわからなかった」

「ああ……社交の場では上げるようにしてるんだ」


ルーファスは整髪料で整えた前髪を撫で、手すりから身体を離した。


冷たい夜風が、フィオナの前髪をかき分ける。

小さな傷痕を視界に映したルーファスは、苦しそうに眉を寄せた。


「申し訳ありませんでした」


そして、深く頭を下げる。


「頭、上げて……」


フィオナは戸惑いを見せつつ、もう一歩ルーファスに近寄った。


「傷……残っちゃったんだな」

「大丈夫だよ。見えないところだし……」


フィオナは無意識に前髪を整えた。

脳裏に浮かぶのは、幼い日のルーファスの顔ばかりだった。


断片的だった記憶が、一本の線で繋がっていく。

あの日は、ルーファスと一緒に厩舎に向かっていた。

きっかけは、「馬に触ってみたい」と溢したフィオナの言葉だった。


"ルーファス、やっぱりやめよう……"


フィオナが突然立ち止まる。


"……何で?"

"わ、私、お部屋で本読みたい"


厩舎の入り口に、血まみれの男の霊が立ち尽くしていたからだった。

ギロリ――鋭い眼光がこちらを向く。


"ルーファス……っ"

"嘘つき!"


ルーファスに触れようと伸ばした手が、振り払われた。

フィオナはバランスを崩し、転倒してしまった。

たまたまそこに鋭利な石があって、たまたま血の出やすい場所に当たってしまった――

それだけのことだったのに、気付いた時にはルーファスもアナも、屋敷を出ていくことになっていた。


「あの時は俺もガキで……」


ルーファスはふと、月にかかった雲を見上げた。


「母さんを取られるんじゃないかって、余裕がなかったんだと思う」


薄雲が月を覆う。

ルーファスに向かって伸びるフィオナの影が、ワントーン濃くなったような気がした。


「俺は、何をしたら償える?」


ルーファスの真剣な瞳がフィオナを見据える。

求めたのは赦しではなかった。


"罪を裁かないのは、優しさではない"


フィオナの脳裏にアドルフの言葉が蘇る。


(ルーファスのは……罪じゃない)


フィオナはすぐにそれを打ち消した。


「私が嘘つきなのも……アナの時間を奪ってたのも、事実だと思う」


フィオナは背筋を伸ばし、まっすぐと視線を返した。


「だから、償いはいらない」


同情でも遠慮でもない――フィオナの確かな意志だった。


ルーファスが肩の力を抜いたのと同時に、ドアの隙間から漏れていた音楽のテンポが変わった。

三拍子のワルツから、二拍子のポルカへ。


「……ありがとう」


ルーファスはどこか吹っ切れたように笑った。

薄く開けた唇の隙間から、白い歯が覗く。

その笑い方は、ルーファスの母――アナによく似ていた。


「アナは……」

「元気だよ」


ルーファスはフィオナが言い終わる前に答えた。


「今は大衆食堂で働いてる」

「そっか……」


フィオナが安堵の息をついた、その時――

音楽が鳴り止んだ。

フィオナとルーファス、二人の視線が窓に向く。


「……行った方がいいかもな」

「うん」



***



会場内では誰もが動きを止め、玉座へと目を向けていた。

そこには立ち上がった皇帝と、その前に片膝を立てて跪くアドルフの姿があった。


「アドルフ・ロートレック……此度の出征において示した勇気と忠節、まこと見事であった」


静寂の中、皇帝の威厳ある声が響く。


「サントレはその剣によって守られ、多くの命が救われた。その功を称え、勲章を授ける。併せて、金百枚を下賜しよう」


皇帝が右手を挙げると、後ろに控えていた侍従二人が前に出た。

手に持つトレーの上にはそれぞれ、宝石で装飾された勲章と、山積みにされた一部の金貨が乗っていた。


「すげー……」


二階にまで届く強い輝きに、隣に立つルーファスが呆然と呟いた。


(おもて)を上げよ」


皇帝が勲章を手に取ったあと、沈黙が長く続いた。

アドルフが、微動だにしない。


「どうされたのかしら……」


周囲がざわつき始める。


「……!」


フィオナは目を見開き、手すりを強く掴んだ。

凝視する先は、アドルフの背後――


『ハッ……ハハハ!』


高らかに笑う、鎧を纏った男の霊だった。


『さあアドルフ・ロートレック……身体を寄越せ……』


霊がアドルフの背中に足を踏み下ろすと、つま先がその中に消えていった。


「あ……!」


フィオナは思わず声を上げ、ルーファスがちらりと視線を向けた。


『この手で皇帝を斬り、お前は全てを失うのだ! 富も! 名声も! 家族も!』

「う……」


霊の膝までが吸い込まれる。

アドルフは胸に当てていた手を床につき、呻き声を漏らした。


皇帝が眉間に皺を寄せる。

背後にいた騎士たちが前に出てきた。

会場内のどよめきは、波紋のようにどんどん広がっていった。


「お父様……っ」


フィオナは走り出していた。

スカートの裾を高く持ち上げる。

はしたないと言われようが、今は一刻も早く父のそばに駆けつけたかった。


耳元でイヤリングが激しく揺れ、光が乱れて散った。



***



「う……」


アドルフは思わず床に手をついた。

視界が歪む。

頭の奥を揺らされているような感覚だった。


(動かない……)


腕に込めた力は、どこか別のところに吸収されているかのように、虚しく消えていく。


「体調が優れないのかしら……?」

「大丈夫か……?」


声の内容は届かないが、空気のざわめきは肌で感じていた。

具合が悪いわけでも、身体が痛むわけでもない。

ただ、得体の知れない"何か"が侵食してくるような気がして、酷く不快だった。


(早く……立ち上がらなければ……ッ)


アドルフは奥歯を強く食いしばった。

このままでは、皇帝に背く意思があると捉えられてしまう。

帝国を代表する騎士として、そして家長として、屈するわけにはいかなかった。


「……!?」


ドクン――

一瞬、アドルフの心臓が大きく脈打った。


「きゃあ!?」


甲高い悲鳴を皮切りに、会場が騒然とする。

皇帝を庇うように騎士二人が前に出て、こちらに剣先を向けていた。


――アドルフの右手が、剣にかかっていた。


刃が鞘を擦る。

刀身に映った瞳は、酷く充血していた。


「お父様!!」


喧騒の中、フィオナの声だけがはっきりと聞こえた。


(フィオナ……!)


アドルフは唇を強く噛み、剣を鞘へと押し戻した。


ドサ――

アドルフの屈強な身体が、崩れ落ちた。


唇から滲んだ鮮血が、大理石の床にじわじわと広がっていった。




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