37:ロートレック伯爵令嬢
舞踏会当日――
「はあ……」
「わあ……」
「天使……」
思わず感嘆の息を漏らした侍女たち。
その視線の先には、青いドレスに身を包んだフィオナがいた。
スクエアネックから覗く鎖骨は上品で、キャップスリーブから伸びる腕は細く、しなやか。
きゅっと締まったウエストの下には程よいボリュームのベルラインが広がり、フィオナが動くたびにふわふわと柔らかく揺れた。
そして何より、海のように深く、光を飲み込むような神秘的な青が、フィオナの色と雰囲気によく合っていた。
(綺麗な色……)
フィオナは鏡に映る自分の姿を、どこか他人事のようにじいっと見つめた。
「では、次は髪をまとめましょう!」
ダフネが満面の笑みでドレッサーの椅子を引く。
フィオナはドレスの裾を持ち上げ、慎重に歩き、そこに腰をかけた。
「失礼します」
髪を掬い、束ねていくダフネの手つきはとても優しかった。
フィオナは少しくすぐったさを感じつつ、ドレッサーの上に置かれたイヤリングに目を向ける。
「そのムーンストーン、なかなか質が良いと思います」
鏡越しにその視線に気づいたダフネが言う。
「特に青白い光が出るものは、当たりです」
「そうなんだ……」
「宝石商に貰ったと言ってましたが、なかなか目利きの良い商人がいるみたいですね」
仕立て屋の老婆から貰ったムーンストーンのイヤリングは、決して派手な物ではない。
しかし、格式あるドレスにも劣らない、静かな存在感があった。
「前髪は……このままでいいですね」
「うん」
ダフネは前髪に軽く櫛を通す。
――その下に隠れた傷に、触れないように。
「髪飾りはどうしますか?」
「あ……リボンを着けたい。机の上に置いてあるんだけど……」
フィオナは少しだけ首を動かし、視線を後ろに送る。
「こちらですか?」
「うん、ありがとう」
リネットが机の上の細長い箱を手に取り、小走りで戻ってきた。
「アカデミーのパーティーでも着けましたよね」
「うん」
中身は、レナルドに貰った白いリボンだった。
「思い出のお品なんですか?」
「友達に貰ったの」
「……!」
柔らかな表情で頷いたフィオナを見た瞬間、ダフネの手がぴたりと止まった。
(友達……? いや……これは……)
ダフネは手にしたリボンをまじまじと見つめる。
なめらかな肌触りに上品な光沢――上質な物だと、すぐにわかった。
「ち、ちなみにそのお友達って……」
「レナルドっていうんだけど……同じ留学生なの」
(ライバル……!!)
出てきた男の名前に、ダフネの瞳孔がカッと開いた。
「も、もしかして、ベアトリクス侯爵家のご子息ですか!?」
ダフネの斜め後ろに立っていたエミナが、期待に満ちた表情で尋ねた。
「うん」
「!」
フィオナが頷くと、エミナはきらきらと瞳を輝かせた。
(ベアトリクス卿……ルゼオンの社交界で人気の美男子……)
一方で、ダフネは固まったまま眉間に皺を寄せていた。
「十歳の頃からの友達なの」
(幼馴染……!?)
レナルドの恋敵としてのポテンシャルの高さに、ダフネは息を飲む。
「……リボン、合わないかな?」
フィオナはダフネの浮かない顔を、鏡越しに覗き込んだ。
「いえ……白は、どんなドレスにも合う万能色です……!」
ダフネは歯を食いしばり、答えた。
「とってもお似合いです!」
背後のエミナは明るい表情でうんうんと何度も頷いていた。
そこに、コンコンとノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
「準備はできた……か……」
入ってきたアドルフは、ドレッサーの前に座るフィオナを見た途端、その場で動きを止めた。
「わあ……!」
アドルフの背後から現れたアンリは、目と口を大きく開き、フィオナに駆け寄った。
「姉さん、すごく綺麗だよ!」
「ありがとう」
「僕も行きたかったなぁ」
ストレートに賞賛するアンリ。
対して、アドルフは未だに扉の前から動けないでいた。
「……大きくなったな」
ようやく絞り出した言葉が、部屋に静かに響いた。
「一メートルと、六十四センチになりました」
「……そうか」
(う……可愛い……ッ)
物理的な成長を伝えるという、フィオナのズレた可愛さに、ダフネは顔が緩んでしまうのを必死に堪えた。
「っ……」
一瞬、アドルフの視界が揺らぐ。
「……先に行っている」
「はい」
アドルフは眉間を押さえたあと、部屋を出ていった。
「きっとフィオナお嬢様の美しさに感動したんでしょうね」
ダフネやエミナは微笑ましくその後ろ姿を見送った。
「……」
しかし、血塗られた鎧を着た霊を映すフィオナの瞳だけは、不安げに揺れていた。
***
(早く終わらないかな)
皇宮の大広間。
大きなシャンデリアを見上げ、クラリスは小さなため息をついた。
入り混じる香水の匂いも、好奇に満ちた噂話も、羨望の眼差しも、全てが息苦しかった。
「公女様、今宵も貴女の輝きを超える蝶は現れないようですね」
下睫毛の長い男性が、当然のように距離を詰めてくる。
「そんなことはありませんわ」
クラリスはさりげなく一歩下がり、赤い扇子で口元を隠した。
(胸見てんのがバレバレなんだよ、スケベ睫毛!)
扇子の裏でクラリスが口を歪めた、その時――
「あれって……」
「どこのご令嬢かしら?」
会場がざわめく。
それまで散っていた視線が、一斉に入り口へ吸い寄せられた。
「もしかして……ロートレック伯爵令嬢……?」
「え……でも、精神を患ってるって聞いたわ」
周囲から戸惑いの声があがる。
「美しい……」
目の前の男性がぽつりと呟いた。
(ロートレック伯爵令嬢……?)
クラリスもその視線の先を追う。
そこには、青いドレスを身にまとった見知らぬ令嬢がいた。
深みのある青色が肌の白さを際立たせ、うなじで揺れる白いリボンが可憐な雰囲気を最大限に引き出している。
(素敵……)
その神秘的な美しさに、クラリスも思わず見入ってしまった。
「……」
しかしすぐに正気を取り戻し、目の前の男性の様子を窺った。
男性の視線は、ロートレック伯爵令嬢に釘付けになっている。
(今のうちに……)
クラリスは一歩ずつ、ゆっくりと後ずさる。
そして、男性に気づかれないまま、人混みの中へと紛れていった。
***
皇族への挨拶を終えたあと、フィオナはゆっくりと息を吐いた。
(眩しい……)
大きなシャンデリアから降り注ぐ光に、思わず目を細める。
デビュタントぶりの社交界は、フィオナにとっては華やかすぎて、まるで異国の地を訪れているかのように思えた。
「足は疲れていないか?」
「大丈夫です」
アドルフを見上げると、自然と背後の霊も視界に入る。
霊は依然として大人しかった。
アドルフの様子もいつもと変わらない。
しかし――胸にかかる霧のような不安は晴れなかった。
「アドルフ!」
最強の騎士と謎の美少女を誰もが遠巻きに見つめる中、野太い声がアドルフを呼んだ。
「久しぶりじゃないか!」
「ヴィクトル……相変わらず声がでかいな」
アドルフは振り向くと、少しだけ表情を和らげた。
「娘のフィオナだ」
「初めまして。フィオナ・ロートレックです」
「ヴィクトル・ハインツだ。王室の騎士団で部隊長をやっている」
フィオナは作法通りに膝を曲げ、ヴィクトルは胸に手を当て、軽く頭を下げた。
「娘がこんなに美人だとは聞いていないぞ! うちの倅がもう少し若ければ婚約を申し込んでいたな」
「却下だ」
「そう熱くなるな。もしもの話じゃないか」
ヴィクトルは豪快に笑い、アドルフの背中をバシバシと叩いた。
その様子を、フィオナは物珍しげに見つめていた。
「それはそうと……」
ヴィクトルが声のトーンを落とした瞬間、空気がピンと張り詰める。
「サントレの領主が話をしたいそうだ」
サントレ――今回、アドルフが赴いた戦地だ。
「……」
アドルフはフィオナを見る。
「私は大丈夫です」
「……少し話してくる」
フィオナが凛とした表情で頷いたのを確認し、アドルフはヴィクトルとともに会場の隅へと向かっていった。
――周囲の男に、牽制の睨みをきかせてから。
(レナルドは……来てるのかな)
残されたフィオナは、居心地が悪そうに指先を擦り合わせた。
「初めまして。お名前をお伺いしても?」
誰もがタイミングを見計らっている中、一人の男がフィオナの前に歩み出た。
下睫毛の長い、見知らぬ男性だった。
「フィオナ・ロートレックです」
「フィオナ嬢……可憐な貴女に相応しい響きだ。私はフェルナン侯爵家の次男、エミールです」
男性はもう一歩フィオナに近寄り、フィオナの白い腕、そして手の甲へと視線を滑らせた。
値踏みするようなその瞳に、不快感を感じた。
「キスの挨拶をしても?」
「嫌です」
「エッ」
フィオナは躊躇なく拒否する。
断られるとは思わなかったのか、男性の伸ばしかけた手が中途半端な位置で固まった。
「……コホン」
男性は仕切り直すように小さく咳払いをし、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
そして眉をキリッと上げ、小さな箱をフィオナの前に差し出した。
パカ――
箱の中には、指輪が入っていた。
「?」
フィオナには意図が分からなかった。
男性は得意げに口角を上げている。
「まあ……あれ、ピジョン・ブラッド・ルビーではなくて?」
「どこで手に入れたのかしら」
二人のやりとりを遠巻きに眺めていた貴婦人たちが、その赤い輝きを見た途端目の色を変えた。
「この最高級のルビーを、今宵最も美しい女性に贈ろうと決めていました」
男性はうっとりと、雰囲気たっぷりにフィオナを見つめた。
「え……」
フィオナはただただ意味がわからなかった。
いらないです――そう伝えようと、フィオナが口を開いた時。
「これは偽物ですね」
整然とした男性の声が、後ろから響いた。




