35:家族の時間
ブローン伯爵邸――
「……」
ルイスは自室のソファに浅く座り、二通の封筒を前にゆっくりと深呼吸をした。
まず最初に手に取ったのは白い封筒。差出人はダフネである。
封を開け、ざっと目を通す。
"フィオナお嬢様の可愛らしさは相変わらずで……"
"弟のアンリ坊ちゃんも雰囲気がそっくりで、お二人が並ぶ姿は……"
(……一枚目は飛ばしていいな)
ルイスは無表情で、一枚目の便箋をテーブルの脇に投げた。
"フィオナお嬢様の家の問題について、ご報告します"
二枚目の冒頭の文を確認して、背筋を伸ばす。
最初のテンションとは一転、落ち着いた文体で、メリンダ追放までの流れが綴られていた。
読みながら、ルイスは無意識に眉間に皺を寄せていた。
"そしてここからが本題です……"
(これが本題じゃないのか……?)
もったいぶるような最後の一文に眉をひそめ、便箋をめくると――
"フィオナお嬢様が、殿下の顔が好きと仰ってました!!!"
大きな文字に、過剰な感嘆符。
ダフネの昂ったテンションが、そのまま伝わってきた。
(知ってる)
ルイスの表情はスンとしたまま変わらなかった。
その発言は、既に本人から直接言われている。
――オレンジ色の好意の光をまとった状態で。
「はぁ」
ルイスは小さくため息をつき、最後の一文を追った。
"追伸:求婚の際はお父様と決闘することになるかもしれません"
背筋に冷たいものが走る。
(ルゼオン最強の騎士と……?)
ルイスはごくりと唾を飲み、丁寧に便箋を折りたたんだ。
そして、もう一つの封筒――フィオナからの手紙を手に取る。
中にはシンプルな便箋が一枚。
丸みを帯びた文字が綴るのは、何気ない日常のことだった。
"ダフネの作ったクッキーが美味しかった"
"ケイティ夫人が貸してくれた小説を読んだ"
(日記かよ)
ぎこちない文の羅列に、自然と笑みが溢れた。
フィオナの透き通った声が、脳内で再生される。
読み進めていくにつれ、余計な力が抜けていく。
ルイスはソファの背にもたれた。
しかし――最後の一文を目にした瞬間、身体を硬直させた。
"庭に来る青い蝶々を見るたびに、ルイスのことを思い出します"
その言葉に、ルイスの心臓が忙しなく脈打つ。
「あー……」
ルイスは手紙を膝の上に下ろし、天井を見上げた。
「会いてぇー……」
少し掠れた声が、静かな部屋にゆっくりと染み込んでいった。
***
ルゼオン帝国、ロートレック伯爵邸。
庭園に咲くバラの周りで、蝶たちが戯れている。
今日は珍しく、剣のぶつかり合う音が聞こえなかった。
「おい、早く食堂に行くぞ」
「え?」
「今日は居残り禁止だ」
訓練場の隅で剣を振る新人騎士に、先輩騎士が声をかける。
「何故ですか?」
「今日の昼休憩は訓練場に立ち入るなと、伯爵の指令だ」
先輩騎士の視線の先には、訓練場の中央に腕を組んで佇むアドルフ。
その面持ちは神妙で、異様な威圧感を放っていた。
「ま、まさか、誰かが伯爵と決闘を……!?」
「いや、そんな話は聞いてないな……」
「! 誰か来ました!」
訓練場の砂利を踏み歩く音が聞こえ、二人は咄嗟に厩舎の影に隠れた。
「お嬢様と坊ちゃん……?」
現れたのは、フィオナとアンリだった。
アンリはともかく、フィオナが訓練場に姿を現すのは珍しい。
しかも、今日はワンピースではなく、シンプルなシャツと黒いズボンという装いだ。髪も一つにまとめている。
「お嬢様も剣を習うんですか?」
「いや……」
「!」
騎士二人が見守る中、アドルフが剣を抜いた。
緊張感が走る。
数多の戦地をアドルフと共に切り抜けてきた名剣が、ゆっくりと振り下ろされ――
地面に線を引いた。
「スタート地点はここ……」
アドルフはそう言うと、大股で北に向かって歩き始めた。
そして、五十メートルほど離れたところで立ち止まる。
「ゴールはここだ。笛で合図する」
剣を納め、笛を構えるアドルフ。
「負けないよ、姉さん」
「私も」
交戦的に笑い合うフィオナとアンリ。
「構え……」
ピー!
笛の音とともに、フィオナとアンリが走り出した。
(かけっこ……!?)
まさかの展開に、騎士二人は真顔で硬直する。
「あー、あとちょっとだったのに!」
勝負は、僅差でフィオナが勝った。
アンリは悔しそうな声をあげて天を仰いだが、その表情は綻んでいた。
「フィオナお嬢様、何であんな足速いんですか……?」
「さあ……。遺伝じゃないか?」
「見た目は全く似てないのに……」
ギロリ――
こそこそと話していた騎士二人に、アドルフの鋭い眼光が向けられた。
「さ、さあ食堂に行こう」
「はいッ」
騎士たちは顔を真っ青にして、そそくさとその場を離れた。
「……」
その背中を見送ったアドルフは小さく息をつき、フィオナを見た。
「フィオナ……剣を、習ってみるか……?」
様子を窺うような、慎重な問いかけだった。
「いえ……」
フィオナは数回瞬きをしたあと、首を横に振った。
控えめにアドルフを見上げ、もじもじと指先を擦り合わせる。
「剣じゃなくて……乗馬を、教えてほしいです」
「!」
***
「この子はトニー。大人しい馬だよ」
アンリが厩舎から小柄な馬を引いてきた。
「僕も最初はこの馬で練習したんだ」
「触っても大丈夫……?」
「大丈夫だよ」
フィオナは馬の瞳をじっと見つめてから、首の付け根に優しく手を置いた。
(あったかい……)
厚い質感と、体温が心地よかった。
「ブーツと手袋、僕ので入るかな?」
「多分。ありがとう」
フィオナが細身の乗馬ブーツにぎこちなく足を通す後ろで、アドルフは黙々と馬の装具を整えていた。
「……準備はできたか?」
「はい」
ブーツと手袋を装着したフィオナは、少し緊張した面持ちで馬の横に立った。
「まずは鐙に足をかけて……」
言われた通りに金属の輪っかに足をかける。
しかし、バランスの取り方が難しく、身体を持ち上げることができなかった。
(もう一回……)
その時、急に身体が軽くなった。
視界が浮き、気づけば鞍の上に跨っていた。
――アドルフに抱き上げられたからだった。
「あ、ありがとうございます」
「……ああ。まずは俺が馬を引く。手綱をしっかり持っていなさい」
「はい」
フィオナは手綱をぎゅっと握りながら、アドルフの大きな手を盗み見た。
胸が少しくすぐったくて、きゅ、と唇を結んだ。
「姉さん、上手だよ!」
「ほんと?」
馬の隣を歩くアンリが、嬉しそうに見上げてきた。
「体幹がしっかりしてるから問題なさそうだな……少し離すぞ」
「はい」
フィオナは手綱を握る手に力を込め、背筋を伸ばす。
馬が少しだけペースを上げた。
いつもより高い位置で見渡す景色は新鮮で、肌を撫でる風は心地よかった。
(楽しい……)
フィオナが目を細めた、その時――
『見つけた……アドルフ・ロートレック……』
低く、地を這うような声が割り込んできた。
フィオナは顔色を変え、アドルフに目を向けた。
(霊……!)
アドルフの背後に、目の血走った男が立っていた。
「あ……ッ」
靴底が鐙を滑り、身体が後ろに傾く。
視界の端に、目を見開いたアドルフが映った。
「っ……」
太ももが地面に当たった瞬間、フィオナは反射的に転がって受け身をとった。
砂埃が舞い、馬がいななく。
「姉さん大丈夫!?」
「大丈夫か、フィオナ」
地面に伏したフィオナに、アンリとアドルフが駆け寄る。
「大丈夫、です」
フィオナは小さく咳き込み、ゆっくりと上体を起こした。
打撲の痛みはあるが、身体を動かすには問題なかった。
「立てるか?」
アドルフが手を差し伸べる。
フィオナはその手を取ろうとしたが、ぴたりと動きを止めた。
『まだだ……まだ俺は、敗けていない……!』
憎しみに顔を歪めた男が、アドルフを睨んでいた。
軍人だろうか――身に纏っている鎧には、赤黒い血がこびりついていた。
もちろん、アドルフに霊は見えていない。
「う……」
ズキンと、頭に鈍痛が走る。
フィオナは咄嗟にこめかみを押さえた。
「頭を打ったのか?」
アドルフは膝をつき、フィオナの顔を覗き込む。
「いえ……」
心配してくれていることはわかっているのに、フィオナは不自然に目を逸らしてしまう。
「少し、酔ってしまったのかも……です」
フィオナは自力で立ち上がった。
アンリがその背中を支える。
「医者を呼ぶ。それまで部屋で安静にしていなさい」
「……はい」
霊を背にしても、アドルフの様子はいつもと変わらなかった。
それでも不安は拭いきれず、フィオナの胸の中をじわじわと侵食していった。




