34:嫌だった
「わあ……本当にバラの匂いがする」
ティーカップを鼻に近づけ、不思議そうに目を丸くするアンリ。
「でしょ?」
その様子を、フィオナが微笑ましく見つめる。
応接間のソファに隣り合って座るフィオナとアンリは、いつぶりだかわからない、姉弟水入らずの時間を過ごしていた。
「ロイフォードはバラが有名で、いろんな色のバラがあるんだよ。あとね、バラのアイスもあった」
「へえ……」
いつになく饒舌に話すフィオナの横顔を、アンリはじっと見つめた。
「このローズヒップティーは……友達に貰ったの」
カップを持ち上げる優しい手つき、そして柔らかな表情から、フィオナの幸福感が伝わってくる。
しかし、対照的にアンリの胸はちくりと痛んだ。
この家がフィオナにとってどれほど居心地の悪い場所だったかを、思い知ったのだ。
「……どう? あまり好きじゃない?」
「う、ううん! 美味しいと思う」
顔を覗き込まれ、アンリは暗くなってしまった表情を隠すように口元のカップを傾けた。
「その友達って、どんな人?」
「明るくて、たくさん笑う子」
フィオナの説明は簡潔だったが、その緩んだ口元から友達への好意が滲み出ていた。
「アンリは……大丈夫? 最近、出征に同行してるんだよね……?」
そう尋ねたフィオナは、カップをテーブルに置き、じっとアンリの返事を待った。
「大丈夫だよ。まだ前線には出てないし……」
アンリも同じようにカップを置く。
そして、ソファの座面に手をつき、天井を見上げた。
「でも、お父様を見てると……強くならなきゃ、って思うんだ」
思い浮かべたのは父の大きな背中だった。
「最近は騎士のみんなと一緒に訓練を受けてるんだよ」
「そうなんだ」
「筋肉もついてきたよ」
アンリは誇らしげに右腕を掲げてみせた。
幼さの残る丸い瞳は、キラキラと輝いている。
(アンリがお父様みたいに筋肉質になったら……ちょっとやだ)
そこにちょこんとできた力こぶを、フィオナは複雑な心境で見つめていた。
「今なら……かけっこで姉さんに勝てるかもね」
「……!」
一瞬だけ、フィオナの肩が強張る。
追いかけっこは、五年前のあの日からしていない。
アンリを転ばせてしまって、メリンダに「坊ちゃんに近づくな」と命じられた日――
「今度、勝負してよ」
アンリは、意識的に笑みを深くした。
その笑顔に、フィオナの肩の力がすっと抜けていく。
「……いいよ」
フィオナは顔を綻ばせ、アンリの頭を優しく撫でた。
***
細長い食卓が中央に置かれた食事室――ここに家族三人が集まるのは、本当に久しぶりのことだった。
上座にはアドルフが座り、窓側にアンリ、扉側にフィオナが座っている。
会話はなく、時折り、フォークが食器に当たる音が聞こえた。
(静かすぎる……)
配膳係として扉の近くに控えるダフネは、気まずそうに視線を泳がせていた。
「アンリ、たまねぎ食べようか?」
「た、食べられるよ。僕もう十三歳だよ」
「……そっか」
(ああ尊い……!)
そんな中、小さく聞こえてきた姉弟の会話が唯一の癒しだった。
「ダフネ、手紙を」
「は、はい!」
アドルフに呼ばれ、ダフネは緩んだ表情筋を引き締めた。
そして、配膳カートに準備してあった銀のトレーを手に持ち、アドルフに歩み寄る。
「ブラニング伯爵から手紙が届いていた」
アドルフはトレーの上から、開封済みの封筒を手に取った。
「……!」
フィオナは、"家同士で折り合いをつけてください"というファーノンの言葉を思い出し、背筋を伸ばす。
「謝罪の手紙だ。慰謝料として、金貨三十枚を贈ると書いてある」
「三十枚……」
土地を買えるほどの大きな額に、フィオナは呆然と口を開けた。
「令嬢本人からフィオナに宛てた手紙も届いている。……読むか?」
「……はい」
頷くと、ダフネが銀のトレーを差し出した。
その上にはもう一枚、未開封の封筒が乗っていた。
フィオナはそれを手に取り、差出人を確認する。
クレア・ブラニング――封筒には、そう書かれていた。
(クレアさん……大丈夫かな……)
フィオナは正気を失ったクレアの顔を思い浮かべ、封蝋をパキッと割った。
"この度、取り返しのつかない事件を起こしてしまったこと、深くお詫び申し上げます"
一文目には、格調高い謝罪文が丁寧な文字で綴られていた。
"パーティーの夜、あなたに何をしてしまったのか……実はあまり憶えていないの"
(霊に憑かれてたことは、わかってないみたい)
フィオナはほっと息をつく。
その後には今までの行いに対する反省が続き、最後に直接謝れないことへの詫びと、再び機会を設けたいという願いで締めくくられていた。
「……」
フィオナは静かに便箋を折りたたみ、封筒にしまう。
その様子を、アドルフは静かに見守っていた。
「返事をする前に……フィオナの口から、事件について聞きたい」
アドルフの瞳がフィオナを見据える。
「話せるか?」
フィオナは言葉に詰まり、視線を落とした。
その理由は、事件を思い出すのが辛いからではない。
(本当は……クレアさんも被害者……)
クレアは加害者として処理されたが、あの日の彼女は自我を失っていた。
(言えない……)
フィオナは視線を落としたまま、膝の上で拳を握った。
「クレアさんは……確かに、私に悪意を持っていたと思います。でも……私の言動が、クレアさんを傷つけてたのかもしれないし……」
「フィオナ」
フィオナの歯切れの悪い言葉を、アドルフの低い声が遮った。
「罪を裁かないのは、優しさではない」
その一言で、食事室の空気が固まる。
先ほどメリンダを裁いた家長だからこその、重みがあった。
フィオナは何も言い返せず、空の食器を見つめた。
「悪意を受けて……フィオナはどう感じた?」
詰問ではなく、問いかけだった。
(傷ついた……? 辛かった……?)
フィオナは言葉を探す。しかし、しっくりくる表現が見つからなかった。
ふと、ダフネの真剣な眼差しに気づく。
"フィオナお嬢様は、嫌じゃないですか?"
帰省した初日、ダフネに言われた言葉。
その時は「嫌じゃない」と答えた。本当に、そう思っていた。
今となっては、その言葉が自分の感情に蓋をするための防衛本能であったことがよくわかる。
「嫌……でした」
初めて吐露した感情だった。
アドルフは静かに頷き、ダフネは優しく目を細める。アンリは眉を下げ、心配そうにフィオナを見つめている。
それぞれの反応が、吐き出した気持ちを溶かしてくれたような気がした。
「慰謝料として、金貨三十枚は妥当か?」
アドルフは小さく咳払いをし、テーブルの上で指を重ねた。
「俺は、上乗せを請求してもいいと思っている」
「……」
フィオナは高級感のある羊皮紙を一瞥し――
「本人から謝罪の気持ちは十分受け取りました」
迷いのない視線をアドルフに向けた。
「金貨三十枚が……妥当だと思います」
「……わかった」
アドルフは満足げに、ほんの少しだけ口角を上げた。
***
コンコン
「フィオナお嬢様、入ってもいいですか?」
夕食後、ダフネがフィオナの部屋を訪れた。
「うん」
フィオナはソファに腰を掛けたまま、読んでいた小説を膝の上でパタンと閉めた。
「どうしたの?」
「ブローン伯爵に、無事到着したと報告の手紙を出すんですけど……」
ダフネはにこにことフィオナに歩み寄り、両手に持つ色とりどりの便箋を掲げてみせた。
「フィオナお嬢様も、ルイス様にお手紙を書いてみませんか?」
「手紙……」
ダフネの期待に満ちた瞳がフィオナをじっと見つめる。
フィオナはぱちりと瞬きをして、ルイスの顔を思い浮かべた。
ロイフォード王国を離れて、もうすぐ一週間になる。
それでも、随分会っていないような気がした。
「……うん、書いてみる」
(よしっ)
ダフネは小さく拳を握った。
「あと……」
フィオナは小説の表紙をそっと撫で、言葉を続けた。
「ケイティ夫人にも、本のお礼を伝えたい」
「いいですね! 便箋はたくさんあるので好きに使ってください」
「ありがとう。そこに置いて」
「はい」
腰をかがめたダフネの視界に、小説のタイトルが映る。
「あ、『風が凪ぐまで愛を囁く』ですね!」
「ダフネも読んだことあるの?」
「はい! 去年、首都で流行った恋愛小説で、めっちゃ泣けるんですよ~。特にラストの……あッ、言っちゃダメですよね!」
饒舌に語り始めたダフネだったが、途中で気づいて口を押さえた。
フィオナは思わず笑みが溢れた。
「ちなみに、作者のイアン・ジェマーソンはすっごく美形らしいですよ」
「へー……」
(興味なさそう……)
美形の作者について、フィオナの反応は薄かった。
ダフネは安心しつつも、胸に"ある好奇心"が芽生えた。
「フィオナお嬢様は、どんな男性がお好きですか?」
膨らんだ好奇心には抗えなかったようで、率直な質問が飛び出した。
「例えば、伯爵みたいに体格の良い人が好きとか……」
きょとんとするフィオナに、ダフネが慌てて補足する。
「それとも……」
「顔は、ルイスの顔が好き」
「へッ」
フィオナが淡々と述べたのは、ダフネが期待していた言葉だった。
あまりにも期待通りすぎて、変な声が出た。
「そ、そーなんですか! へえー!!」
「瞳の色が綺麗だし、眉と目の配置が整ってると思う」
(は、早く殿下に知らせなければ……!)
ダフネは頬に手を添えたり、前髪を弄ったりと、落ち着きのない動きを繰り返す。
「では、手紙は明日の昼に取りに来ますね!」
そして、スキップしそうな勢いで部屋をあとにした。
***
少し開けた窓から吹き込んだ風が、フィオナの髪を揺らす。
七月中旬とはいえ、夜風は少し肌寒い。
フィオナは一度ペンを置き、ズレたストールを掛け直した。
机の隅には、三つの封筒。
それぞれケイティ、リサ、クレアに宛てたものだ。
(ルイスには……何を書けばいいんだろう)
手元の便箋は、宛名以降、一文字も進んでいなかった。
ホーホーと、一定の間隔で鳴く梟の声に耳を傾けつつ、フィオナはキャンディ缶に手を伸ばした。
蓋を開け、その中から青いキャンディを手に取る。
(綺麗……)
月明かりにかざしてみると、透き通った球体の中に、キラキラと輝く小さな結晶が見えた。
口に含み、舌でころころと転がす。
砂糖の甘みを味わいながら、フィオナは再びペンを握った。
(ルイスは今、何をしてるんだろう……)




