32:奪われていたもの
美しい白馬から、男が地に降り立った。
赤みを帯びた茶色の短髪が、風に小さく揺れる。
太い眉の下の瞳は鋭く、紺色の眼光は見た者を否応なく黙らせる力を宿していた。
顎や手の甲に見える古傷が、彼の騎士としての歴史を物語っているようだ。
彼こそがルゼオン帝国"最強の剣"、アドルフ・ロートレック――フィオナの父親である。
「旦那様……!」
アドルフに最初に駆け寄ったのはメリンダだった。
「フィオナお嬢様が連れてきた侍女が、私の指輪を盗んだのです」
眉を下げ、ダフネを指差す。
「……」
アドルフは何も言わず、ダフネに目を向けた。
(すごい圧だ……)
瞬間、凄まじい威圧感に襲われ、ダフネはごくりと喉を鳴らした。
"一般人は睨まれただけで気絶する"という逸話は、あながち間違いではないようだ。
(フィオナお嬢様……大丈夫です)
フィオナはこの重たい雰囲気の中、声を出せずに唇をきゅ、と結んでいた。
ダフネはその横顔を一瞥したあと、深く息を吸い込んだ。
「ダフネ・リードと申します。ロイフォード王国、ブローン伯爵の紹介で、二ヶ月間こちらで働かせていただくことになりました」
ダフネは手を後ろで組み、一礼した。
落ち着いた声。そして、一点の曇りもない瞳。
その堂々とした様子に、メリンダが眉間に皺を寄せた。
「侍女長が仰ったことについては、私にも言い分があります」
「旦那様、証拠は揃っています」
「ただ……皆様お疲れでしょうし、武具の整備もあるでしょう。そちらが落ち着いてから、場を設けていただけないでしょうか」
「なッ……時間を稼ぐつもり!?」
メリンダの射抜くような視線は意にも介さず、ダフネはアドルフの返事のみを待ち続けた。
アドルフは目だけを動かして、ダフネ、メリンダ、そしてフィオナを順に見た。
「……執務室で話を聞こう」
低い声でそう言うと、アドルフは手綱を引いた。
「……ッ」
「ありがとうございます」
厩舎に向かうアドルフを見て、メリンダは奥歯を強く噛み、ダフネは深く頭を下げた。
「……」
張り詰めていた緊張の糸が弛み、フィオナはようやく肩の力を抜いた。
騎士たちがアドルフに続いて馬を引く中、一人の少年が立ち止まる。
――フィオナの弟、アンリだ。
「姉さん……」
アンリの視線に気づいたフィオナは、薄く笑い、小さく手を振る。
アンリは手を振り返し、名残惜しそうに列に続いていった。
「……チッ」
アドルフの影が離れた途端、メリンダの表情から温度が消える。
(まさかこんなに早く旦那様が戻ってくるなんて……!)
メリンダは足音荒く、庭園を離れていく。
そして玄関前に人影を見つけると、メリンダの赤い唇が怪しく弧を描いた。
「リネット!」
「は、はいっ」
メリンダが呼ぶと、三つ編みの侍女は掃除の手を止めて姿勢を正した。
「あなたも、見たのよね?」
「え……」
「ねえ?」
返事に戸惑うリネットに、メリンダは笑みを貼り付けて歩み寄る。
「……」
その圧に耐えきれず、リネットは小さく頷いた。
瞬間、メリンダの片方の口角が歪に吊り上がる。
「じゃあ一緒に来てちょうだい」
メリンダは侍女を二人従え、屋敷の中へ入っていった。
***
執務室は、重たい静けさに包まれていた。
窓は閉め切られ、外の気配は遮断されている。
壁際に置かれた大時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
横長の執務机に向かって座るアドルフは、不在の間に溜まった書類に目を通していた。
机の右端には、色とりどりのキャンディの入ったガラス瓶と、まだ開けていないキャンディ缶が二つ。
必要最低限の物しか置かれていない机の上で、その一角だけが異彩を放っていた。
「……やけに遅いですね」
ソファに深く腰掛けたメリンダが、横目で時計を見る。
「都合が悪くなって、逃げ出したのではないですか?」
メリンダは腕を組み、ため息をついた。
その背後には居心地の悪そうな侍女が二人、控えている。
「すぐに来ます」
ローテーブルを挟んで向かいのソファに座るフィオナは、はっきりと言い返した。
――当事者であるダフネが、まだ来ていない。
フィオナは、膝の上で指先をきゅっと握った。
コンコン――
時計の長針の音と、ノック音が重なった。
「失礼します。お待たせして申し訳ありません」
毅然とした態度で現れたダフネに、フィオナは柔らかな視線を向ける。
「あまりにも遅いから、逃げたのかと思ったわ」
一方、メリンダはメガネをくいっと上げ、嘲笑を向けた。
「こちらを、取りに行っていたので」
ダフネは持っていた冊子を胸の前に掲げた。
「それは……ッ!」
目を見開くメリンダを横目に、迷いなく机の前まで進んでいく。
「……何故、うちの帳簿を?」
書類を脇に置いたアドルフが、ダフネをまっすぐ見上げる。
ダフネが持ってきたのは、伯爵家の帳簿だった。
「家の物を勝手に持ち出すなんて……! 旦那様、やはりこの者は盗人に違いありません!」
帳簿がアドルフの手に渡った途端、メリンダが立ち上がり、捲し立てた。
「指輪の件について、私は潔白を示す証拠を持っていません」
ダフネは振り返らず、アドルフだけを見据える。
「ですので……伯爵には、どちらが嘘つきかを、ご判断いただきたいと思っています」
「旦那様、どちらが嘘をついているかは明白です!」
「メリンダ」
アドルフの低い声がメリンダの名を呼んだ。
瞬間、メリンダはぴたりと動きを止める。
「座れ」
「失礼、しました……」
メリンダは額に汗を滲ませ、ソファに座り直した。
「帳簿は侍女長が作成、管理していると聞きました」
「……ああ」
「支出の項目で、気になる点はありませんか?」
かさり――乾いた紙が掠れる音が聞こえる。
アドルフが一枚、また一枚とページをめくるごとに、メリンダの顔色は悪くなっていった。
「……」
ふと、アドルフの手が止まり、片眉がぴくりと動いた。
「エドソン……マイラ……シュナイダー……」
「!」
メリンダが肩を揺らす。
「この三名は辞職しているが……何故給料が支払われている?」
「そ、それは……」
鋭い眼光がメリンダを射抜く。
メリンダは小刻みに足を震わせ、視線を泳がせた。
「私も気になったところがあります。伯爵、次のページをご覧ください」
かさり――アドルフはもう一枚、ページをめくった。
「フィオナお嬢様の装飾品代の項目です」
「いくらかけても構わないと言ってある」
そこに書かれていたのは、フィオナのドレスやアクセサリーの購入額だった。
他の項目と比べると、桁が二つ多い。
しかし、その金額の大きさ自体は問題ではなかった。
「お嬢様のお部屋のクローゼットには……真新しいドレスも、アクセサリーも確認できませんでした」
ダフネの言葉を聞き、アドルフは思わず眉間に力を入れた。
深い皺が刻まれ、青筋が浮かび上がる。
「も、申し訳ありません……ッ! 数字は少し苦手で、記帳ミスがあったようで……」
メリンダが立ち上がり、深く頭を下げた。
俯いた顔は青白く、腿の前に重ねた手は震えていた。
「……フィオナ」
「はい……」
「新しいドレスは買っていないのか?」
アドルフはメリンダには反応せず、フィオナに問いかけた。
「服は……」
一瞬だけ言葉に詰まりながらも、フィオナは静かに続けた。
「小さくなったら、お小遣いで買っています」
フィオナの答えを聞いたアドルフは切なそうに眉を寄せ、それを隠すように手で押さえた。
「……ダフネ、何故不正があるとわかった?」
続いて、ダフネに問いかける。
ダフネはメリンダの手元を横目で見た。
「侍女長が着けている指輪の宝石、ダークレッドのルビー……通称ビーフ・ブラッド・ルビーと呼ばれています」
「!」
ぴくりと、メリンダの指が反応する。
「使用人が身につけるにはあまりにも高価な物なので、違和感を感じたのがきっかけです」
ダフネの視線を辿り、アドルフの瞳も指輪を捉える。
赤黒いルビーは、長い年月を経て熟成された牛の血のような、重厚で威厳のある輝きを放っていた。
「先ほど侍女長は、その指輪を"給料三ヶ月分で買った"と仰っていましたが……帳簿を見る限りでは不可能です」
振り返り、メリンダに向かい合ったダフネは、凛とした表情で問いかける。
「どうやって、お金を工面したんですか?」
全員の視線がメリンダに集まる。
時計の秒針だけが、変わらず一定の間隔で時を刻んでいた。
「給料三カ月分というのは……見栄を、張ってしまっただけです……」
静寂の中、メリンダは言葉を探すように声を詰まらせながら、話し始めた。
「私は決して横領などしておりません! コツコツ貯めた自分のお金で購入しました。それよりも……ッ」
メリンダは奥歯を食い縛り、ダフネをギロリと睨んだ。
「この指輪の価値を知っているとなると、ますます怪しいではありませんか。その帳簿だって、手を加えられた可能性があります」
わざとらしく誇張した声のトーンと手振りで主張する。
「そ……そもそもの問題は指輪の窃盗事件です。あの女は今、論点をずらして自分の罪をうやむやにしようとしています!」
(よく動く口だこと……)
早口でまくし立てるメリンダに、ダフネは呆れたように短く息を吐いた。
「あの女が指輪を盗んだことは、間違いありません。こちらには証人が二人もいるんですよ」
「……!」
メリンダの血走った瞳が背後に向けられる。
侍女二人は肩をびくりと揺らし、居心地が悪そうに視線を泳がせた。
「ねえ?」
メリンダのねっとりとした問いかけが、彼女たちを追い詰める。
「わ、私、見ました……!」
三つ編みの侍女が、意を決したように声をあげた。
その瞬間、メリンダの口角がにやりと上がる。
「……じっ、侍女長が、ダフネさんのベッドに、指輪を入れてるところを……!」
「!?」
しかし、出てきたのはメリンダの想定とは真逆の証言だった。
メリンダは頭に血が上り、今にも飛びかかりそうな勢いで振り返った。
「何を……ッ」
「メリンダ」
「!」
アドルフの低い声に呼ばれ、メリンダの動きがぴたりと止まる。
「家の金を横領し、指輪の盗難事件を自演した……間違いないな?」
「……っ」
メリンダはごくりと息を飲み、ゆっくりとアドルフに振り返る。
そして目が合った瞬間、足の力が抜け、膝から崩れ落ちた。
「も……申し訳ございません……!!」
絨毯に両手をつき、深く頭を下げた。
「お金はお返しします……! 指輪を売って、当面のお給料もいりません……」
「メリンダ、顔を上げろ」
「旦那様……!」
メリンダは縋るようにアドルフを見上げたが、すぐに息を飲むことになった。
普段感情を見せない紺色の瞳から、抑えきれない怒りが滲み出ている。
最強の騎士の殺気を正面から受け、メリンダは苦しそうに浅い呼吸を繰り返した。
「処罰を決めるのは、お前じゃない」
「……は、い……」
押しつぶされそうなくらいの圧に、メリンダは頷くだけで精一杯だった。
「……」
アドルフは立ち上がり、一瞬だけフィオナを見てから、机の上のベルを鳴らした。
扉が開き、外に控えていた騎士二人が入ってくる。
「今すぐ荷物をまとめて出て行け」
「……!!」
伯爵家からの追放――それが、アドルフの下した処罰だった。
騎士二人が、へたり込むメリンダの両脇を抱え、立ち上がらせる。
メリンダは時折ずるずると足を引きりながら、外へと連れて行かれた。
絶望で光を失った瞳は、フィオナを見ようともしなかった。
「……」
フィオナはその背中を、静かに見送った。




