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視える令嬢は王太子の愛をまだ知らない  作者: itoma
第4章:ロートレック伯爵家
33/37

32:奪われていたもの



美しい白馬から、男が地に降り立った。


赤みを帯びた茶色の短髪が、風に小さく揺れる。

太い眉の下の瞳は鋭く、紺色の眼光は見た者を否応なく黙らせる力を宿していた。

顎や手の甲に見える古傷が、彼の騎士としての歴史を物語っているようだ。


彼こそがルゼオン帝国"最強の剣"、アドルフ・ロートレック――フィオナの父親である。


「旦那様……!」


アドルフに最初に駆け寄ったのはメリンダだった。


「フィオナお嬢様が連れてきた侍女が、私の指輪を盗んだのです」


眉を下げ、ダフネを指差す。


「……」


アドルフは何も言わず、ダフネに目を向けた。


(すごい圧だ……)


瞬間、凄まじい威圧感に襲われ、ダフネはごくりと喉を鳴らした。

"一般人は睨まれただけで気絶する"という逸話は、あながち間違いではないようだ。


(フィオナお嬢様……大丈夫です)


フィオナはこの重たい雰囲気の中、声を出せずに唇をきゅ、と結んでいた。

ダフネはその横顔を一瞥したあと、深く息を吸い込んだ。


「ダフネ・リードと申します。ロイフォード王国、ブローン伯爵の紹介で、二ヶ月間こちらで働かせていただくことになりました」


ダフネは手を後ろで組み、一礼した。

落ち着いた声。そして、一点の曇りもない瞳。

その堂々とした様子に、メリンダが眉間に皺を寄せた。


「侍女長が仰ったことについては、私にも言い分があります」

「旦那様、証拠は揃っています」

「ただ……皆様お疲れでしょうし、武具の整備もあるでしょう。そちらが落ち着いてから、場を設けていただけないでしょうか」

「なッ……時間を稼ぐつもり!?」


メリンダの射抜くような視線は意にも介さず、ダフネはアドルフの返事のみを待ち続けた。

アドルフは目だけを動かして、ダフネ、メリンダ、そしてフィオナを順に見た。


「……執務室で話を聞こう」


低い声でそう言うと、アドルフは手綱を引いた。


「……ッ」

「ありがとうございます」


厩舎に向かうアドルフを見て、メリンダは奥歯を強く噛み、ダフネは深く頭を下げた。


「……」


張り詰めていた緊張の糸が弛み、フィオナはようやく肩の力を抜いた。

騎士たちがアドルフに続いて馬を引く中、一人の少年が立ち止まる。

――フィオナの弟、アンリだ。


「姉さん……」


アンリの視線に気づいたフィオナは、薄く笑い、小さく手を振る。

アンリは手を振り返し、名残惜しそうに列に続いていった。


「……チッ」


アドルフの影が離れた途端、メリンダの表情から温度が消える。


(まさかこんなに早く旦那様が戻ってくるなんて……!)


メリンダは足音荒く、庭園を離れていく。

そして玄関前に人影を見つけると、メリンダの赤い唇が怪しく弧を描いた。


「リネット!」

「は、はいっ」


メリンダが呼ぶと、三つ編みの侍女は掃除の手を止めて姿勢を正した。


「あなたも、()()のよね?」

「え……」

「ねえ?」


返事に戸惑うリネットに、メリンダは笑みを貼り付けて歩み寄る。


「……」


その圧に耐えきれず、リネットは小さく頷いた。

瞬間、メリンダの片方の口角が歪に吊り上がる。


「じゃあ一緒に来てちょうだい」


メリンダは侍女を二人従え、屋敷の中へ入っていった。



***



執務室は、重たい静けさに包まれていた。

窓は閉め切られ、外の気配は遮断されている。

壁際に置かれた大時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。


横長の執務机に向かって座るアドルフは、不在の間に溜まった書類に目を通していた。

机の右端には、色とりどりのキャンディの入ったガラス瓶と、まだ開けていないキャンディ缶が二つ。

必要最低限の物しか置かれていない机の上で、その一角だけが異彩を放っていた。


「……やけに遅いですね」


ソファに深く腰掛けたメリンダが、横目で時計を見る。


「都合が悪くなって、逃げ出したのではないですか?」


メリンダは腕を組み、ため息をついた。

その背後には居心地の悪そうな侍女が二人、控えている。


「すぐに来ます」


ローテーブルを挟んで向かいのソファに座るフィオナは、はっきりと言い返した。


――当事者であるダフネが、まだ来ていない。


フィオナは、膝の上で指先をきゅっと握った。


コンコン――

時計の長針の音と、ノック音が重なった。


「失礼します。お待たせして申し訳ありません」


毅然とした態度で現れたダフネに、フィオナは柔らかな視線を向ける。


「あまりにも遅いから、逃げたのかと思ったわ」


一方、メリンダはメガネをくいっと上げ、嘲笑を向けた。


「こちらを、取りに行っていたので」


ダフネは持っていた冊子を胸の前に掲げた。


「それは……ッ!」


目を見開くメリンダを横目に、迷いなく机の前まで進んでいく。


「……何故、うちの帳簿を?」


書類を脇に置いたアドルフが、ダフネをまっすぐ見上げる。

ダフネが持ってきたのは、伯爵家の帳簿だった。


「家の物を勝手に持ち出すなんて……! 旦那様、やはりこの者は盗人に違いありません!」


帳簿がアドルフの手に渡った途端、メリンダが立ち上がり、捲し立てた。


「指輪の件について、私は潔白を示す証拠を持っていません」


ダフネは振り返らず、アドルフだけを見据える。


「ですので……伯爵には、どちらが嘘つきかを、ご判断いただきたいと思っています」

「旦那様、どちらが嘘をついているかは明白です!」

「メリンダ」


アドルフの低い声がメリンダの名を呼んだ。

瞬間、メリンダはぴたりと動きを止める。


「座れ」

「失礼、しました……」


メリンダは額に汗を滲ませ、ソファに座り直した。


「帳簿は侍女長が作成、管理していると聞きました」

「……ああ」

「支出の項目で、気になる点はありませんか?」


かさり――乾いた紙が掠れる音が聞こえる。

アドルフが一枚、また一枚とページをめくるごとに、メリンダの顔色は悪くなっていった。


「……」


ふと、アドルフの手が止まり、片眉がぴくりと動いた。


「エドソン……マイラ……シュナイダー……」

「!」


メリンダが肩を揺らす。


「この三名は辞職しているが……何故給料が支払われている?」

「そ、それは……」


鋭い眼光がメリンダを射抜く。

メリンダは小刻みに足を震わせ、視線を泳がせた。


「私も気になったところがあります。伯爵、次のページをご覧ください」


かさり――アドルフはもう一枚、ページをめくった。


「フィオナお嬢様の装飾品代の項目です」

「いくらかけても構わないと言ってある」


そこに書かれていたのは、フィオナのドレスやアクセサリーの購入額だった。

他の項目と比べると、桁が二つ多い。

しかし、その金額の大きさ自体は問題ではなかった。


「お嬢様のお部屋のクローゼットには……真新しいドレスも、アクセサリーも確認できませんでした」


ダフネの言葉を聞き、アドルフは思わず眉間に力を入れた。

深い皺が刻まれ、青筋が浮かび上がる。


「も、申し訳ありません……ッ! 数字は少し苦手で、記帳ミスがあったようで……」


メリンダが立ち上がり、深く頭を下げた。

俯いた顔は青白く、腿の前に重ねた手は震えていた。


「……フィオナ」

「はい……」

「新しいドレスは買っていないのか?」


アドルフはメリンダには反応せず、フィオナに問いかけた。


「服は……」


一瞬だけ言葉に詰まりながらも、フィオナは静かに続けた。


「小さくなったら、お小遣いで買っています」


フィオナの答えを聞いたアドルフは切なそうに眉を寄せ、それを隠すように手で押さえた。


「……ダフネ、何故不正があるとわかった?」


続いて、ダフネに問いかける。

ダフネはメリンダの手元を横目で見た。


「侍女長が着けている指輪の宝石、ダークレッドのルビー……通称ビーフ・ブラッド・ルビーと呼ばれています」

「!」


ぴくりと、メリンダの指が反応する。


「使用人が身につけるにはあまりにも高価な物なので、違和感を感じたのがきっかけです」


ダフネの視線を辿り、アドルフの瞳も指輪を捉える。

赤黒いルビーは、長い年月を経て熟成された牛の血のような、重厚で威厳のある輝きを放っていた。


「先ほど侍女長は、その指輪を"給料三ヶ月分で買った"と仰っていましたが……帳簿を見る限りでは不可能です」


振り返り、メリンダに向かい合ったダフネは、凛とした表情で問いかける。


「どうやって、お金を工面したんですか?」


全員の視線がメリンダに集まる。

時計の秒針だけが、変わらず一定の間隔で時を刻んでいた。


「給料三カ月分というのは……見栄を、張ってしまっただけです……」


静寂の中、メリンダは言葉を探すように声を詰まらせながら、話し始めた。


「私は決して横領などしておりません! コツコツ貯めた自分のお金で購入しました。それよりも……ッ」


メリンダは奥歯を食い縛り、ダフネをギロリと睨んだ。


「この指輪の価値を知っているとなると、ますます怪しいではありませんか。その帳簿だって、手を加えられた可能性があります」


わざとらしく誇張した声のトーンと手振りで主張する。


「そ……そもそもの問題は指輪の窃盗事件です。あの女は今、論点をずらして自分の罪をうやむやにしようとしています!」

(よく動く口だこと……)


早口でまくし立てるメリンダに、ダフネは呆れたように短く息を吐いた。


「あの女が指輪を盗んだことは、間違いありません。こちらには証人が二人もいるんですよ」

「……!」


メリンダの血走った瞳が背後に向けられる。

侍女二人は肩をびくりと揺らし、居心地が悪そうに視線を泳がせた。


「ねえ?」


メリンダのねっとりとした問いかけが、彼女たちを追い詰める。


「わ、私、見ました……!」


三つ編みの侍女が、意を決したように声をあげた。

その瞬間、メリンダの口角がにやりと上がる。


「……じっ、侍女長が、ダフネさんのベッドに、指輪を入れてるところを……!」

「!?」


しかし、出てきたのはメリンダの想定とは真逆の証言だった。

メリンダは頭に血が上り、今にも飛びかかりそうな勢いで振り返った。


「何を……ッ」

「メリンダ」

「!」


アドルフの低い声に呼ばれ、メリンダの動きがぴたりと止まる。


「家の金を横領し、指輪の盗難事件を自演した……間違いないな?」

「……っ」


メリンダはごくりと息を飲み、ゆっくりとアドルフに振り返る。

そして目が合った瞬間、足の力が抜け、膝から崩れ落ちた。


「も……申し訳ございません……!!」


絨毯に両手をつき、深く頭を下げた。


「お金はお返しします……! 指輪を売って、当面のお給料もいりません……」

「メリンダ、顔を上げろ」

「旦那様……!」


メリンダは縋るようにアドルフを見上げたが、すぐに息を飲むことになった。

普段感情を見せない紺色の瞳から、抑えきれない怒りが滲み出ている。

最強の騎士の殺気を正面から受け、メリンダは苦しそうに浅い呼吸を繰り返した。


「処罰を決めるのは、お前じゃない」

「……は、い……」


押しつぶされそうなくらいの圧に、メリンダは頷くだけで精一杯だった。


「……」


アドルフは立ち上がり、一瞬だけフィオナを見てから、机の上のベルを鳴らした。

扉が開き、外に控えていた騎士二人が入ってくる。


「今すぐ荷物をまとめて出て行け」

「……!!」


伯爵家からの追放――それが、アドルフの下した処罰だった。

騎士二人が、へたり込むメリンダの両脇を抱え、立ち上がらせる。

メリンダは時折ずるずると足を引きりながら、外へと連れて行かれた。

絶望で光を失った瞳は、フィオナを見ようともしなかった。


「……」


フィオナはその背中を、静かに見送った。



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