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視える令嬢は王太子の愛をまだ知らない  作者: itoma
第4章:ロートレック伯爵家
32/38

31:近づけない理由



翌日、ロートレック伯爵の厩舎にて――

ダフネは一心不乱に、藁箒で飼葉をかき集めていた。


(あンの……吊り目ババア〜〜〜……!)


藁箒の持ち手がミシミシ、と音を立てる。

ことの発端は、三十分前だった。





「よし……!」


ピカピカに磨き上げた窓を見上げて、ダフネは額の汗を拭う。


(これでようやくフィオナお嬢様のところに……)

「まあ、素晴らしい」


ダフネが掃除道具を持ち上げた瞬間、甲高い声が耳を突く。

振り返ると、わざとらしいほど口角を上げたメリンダが立っていた。


「次は厩舎のお掃除をお願いできる?」

(私を、フィオナお嬢様に近づかせないつもりか……)


メリンダの意図は明白だ。

先ほども厨房での仕事を終えたダフネを捕まえて、窓拭きを指示したばかりだった。

そのせいで、今日はまだ一度もフィオナの姿を見ていない。


「さすが、王室での実務経験があるエリート侍女は、仕事が早くて助かるわ」


淑やかに両手を合わせるメリンダ。

右手の指輪の赤黒い宝石が、ギラリと光を反射する。

表向きは褒め言葉だが、その裏には明確な悪意があった。


「承知しました」


ダフネは奥歯を食い縛り、頷いた。





(腹立つ!!)


怒りが沸々と湧き上がり、ダフネの箒捌きがどんどん荒くなっていく。


「あのー……」


そんなダフネに、若い騎士が恐る恐る声をかけた。


「馬を出したいんスけど……」

「……あ!」


見覚えのある坊主頭を見て、ダフネは大きく口を開けた。

伯爵邸に到着した時、出迎えをせずに訓練を続けていた騎士だった。


「聞きたいことがあります」

「!?」


ダフネは目を吊り上げ、箒を持ったまま、ずいっと騎士に詰め寄った。


「何でここの人たちはフィオナお嬢様を避けるんですか?」


ダフネはストレートに疑問をぶつける。

侍女長の管轄内にある侍女たちが影響を受けてしまうのは、まだ理解できる。

しかし騎士たちの指揮をとるのはロートレック伯爵のはずだ。

上官の娘を蔑ろにするなんて、騎士道に反する。

騎士であるダフネだからこそ、強い憤りを抱いていた。


「避けるっていうか……」


ダフネの鋭い目つきに気圧されつつ、騎士はもごもごと口を動かした。


「お嬢様には、近づくなって言われてます……」

「なぜ?」

「近づいたら、伯爵と決闘しなきゃいけないらしいんスよ」

「……決闘?」

「ルゼオン最強の騎士と決闘なんて、絶対タダじゃ済まないじゃないスか……!」


話を聞いていくうちに、ダフネは違和感を感じ始める。


「あ、でもこれは独身者だけっス」

(それって……)


"独身者がフィオナに近づいたら伯爵と決闘しなければならない"

――おそらく、このルールに侍女長は関与していない。


("俺より弱い者に娘はやらん"……ってやつなのでは……?)


父親が、娘に悪い虫が付かないように目を光らせているだけのように思えた。

実際、騎士の言葉にフィオナへの嫌悪や畏怖は感じられなかった。


「……フィオナお嬢様のこと、どう思います?」

「めっっっちゃ美しいっス」


ダフネが聞くと、騎士は真顔で即答した。


「ですよね!!」


ダフネは騎士と固い握手を交わした。



***



(やはり問題は家の"中"か……)


厩舎の掃除を終えたダフネは、訓練場を抜け、玄関へ向かって歩いていた。

すると、目線の先に洗濯物を取り込む侍女の姿が見えた。

ダフネは迷わず駆け寄る。


「ねえ!」

「……!」


声をかけると、若い侍女はびくりと肩を揺らした。

三つ編みにそばかす……昨日、玄関で会った侍女だった。


「……フィオナお嬢様が怖いの?」


か弱そうな侍女に対して、ダフネはできるだけ優しく尋ねる。

侍女は持っていたシーツをぎゅっと握りしめた。


「フィオナお嬢様に近づくと……の、呪われてしまうんです……!」

「……はあ?」


意を決して絞り出したような言葉に、ダフネは眉をひそめ、首を傾げる。


「誰がそんなこと言ってるの?」

「み、みんな、言ってます……。実際、過去に呪われた人がいたらしいんです……!」

「……たとえば?」


出処がはっきりしない噂話ほど、信憑性のないものはない。

ダフネは腕を組み、冷めた表情で尋ねた。


「フィオナお嬢様を可愛がってた侍女は、突然離婚することになったとか……」

(いや、関係ないでしょ)

「フィオナお嬢様が妊娠中の侍女のお腹に触ったら、のちに流産してしまったとか……」

(いや、他にも触った人なんているでしょ)

「精神を病んで仕事を辞めてしまった者もいるんだそうです……!」

(侍女長にいびられたんじゃないの?)


侍女が挙げた例は、どれもフィオナが原因だとは言い切れないものだった。

ダフネは深くため息をつき、侍女を見る。


「それ、あなたの目で直接見たことなの?」

「ッ!」


その冷静な問いかけに、侍女は思わず息を飲み、俯いた。


「い、いえ……」


侍女の声は震えていた。

自分が信じていた噂話が、いかに妥当性の欠けるものであるかを、思い知らされたからだった。

今にも泣き出してしまいそうな様子を見て、ダフネは気まずそうに頬をかいた。


「人や物の価値は……自分の目で見極めた方がいいよ」

「は、はい……!」


そう言って去っていくダフネに、侍女は深く頭を下げた。



――二階の窓に、影が揺れる。


(目障りだわ……)


二人のやりとりを、メリンダが見下ろしていた。

その瞳はひどく冷たく、苛立ちが滲んでいた。



***



伯爵邸の庭園は、手入れこそされているものの、華美とは言い難かった。

花の種類は少なく、風に揺れる赤い薔薇が、この場所にわずかな色を添えていた。

低い生垣の奥に、訓練場が見える。

訓練中の騎士たちが、そわそわした様子で視線を向けてくるのが、ダフネにはよくわかった。


「美味しい……!」


フィオナはガーデンベンチに座って、もぐもぐと口を動かしていた。


「よかった……お菓子作りはまあまあ得意なんです」


頬張っていたのは、ダフネ手作りのクッキーだった。

フィオナの嬉しそうな顔を見て、隣に座るダフネの表情も緩む。

お茶会とまではいかずとも、穏やかで安らげる時間が流れていた。


「もしかして、この前のチョコレートもダフネが作ったの?」


しかし、フィオナの何気ない質問でダフネに緊張が走る。


「あれは……」


ダフネは言い淀んだ。

フィオナがブローン伯爵邸を訪れた時に手土産として渡したチョコレート……あれは、王室専属のパティシエが丹精込めて作ったものだ。


「私では、ないですね……あはは!」

「そっか」


ダフネは笑って誤魔化した。

フィオナは特に気にする様子もなく、クッキーをゆっくりと飲み込む。

そして指先をそっと合わせ、ダフネの顔を覗き込んだ。


「お仕事、大変じゃない?」

「全然ですよ!」


申し訳なさを含んだようなフィオナの問いかけに、ダフネは明るく笑ってみせた。


「まあ、正直侍女長は腹立たしいですけど」


ダフネが率直に言うと、フィオナは苦笑して視線を落とした。

何も言わないフィオナを見て、ダフネがすっと目を細める。


(フィオナお嬢様は……絶対に他者を悪く言わない)


心が清いと、褒めるべきことなのかもしれない。

しかし、吐き出す場所のない感情はフィオナの中に、確実に蓄積されているはずだ。

ダフネにとっては、そちらの方が危うく思えた。


「……あの侍女長は、昔から伯爵邸にいるんですか?」


ダフネは喉まで出かけた言葉を飲み込み、尋ねた。


「うん。侍女長になったのは……五年前かな」

「前任の方は、どうして辞めてしまったんですか?」

「……」


フィオナの睫毛が小さく震える。

鼻の奥がつんとする感覚とともに、懐かしく、温かい声が脳裏に響いた。


"見えることは私たちだけの秘密にしましょうね"


フィオナの能力を理解し、受け入れてくれた初めての大人――アナ。

しかし、そのアナも、母が亡くなった一年後に屋敷を去ってしまった。


「私の……せいなの……」


フィオナが指先に力を込め、声を絞り出した、その時――


「見つけた!」


緊迫した声が、沈んだ空気を裂く。

いつにも増して目を吊り上げたメリンダが、ダフネを睨みつけていた。

その背後には侍女を一人従えている。


「言われた仕事は、全部終わってますけど」


砂利を強く踏みつけてやってくるメリンダに対し、ダフネはめんどくさそうにため息をついて立ち上がった。


「まあ……しらを切るつもり?」

「はい?」


ダフネの真正面に立ったメリンダは、わざとらしく目を見開いた。


「何かあったの……?」


ベンチに座るフィオナが控えめに尋ねる。

すると、メリンダは一度だけフィオナに視線を流したあと、「待ってました」と言わんばかりに声を張り上げた。


「この者が、私の指輪を盗んだのです!」


メリンダの真っ赤な爪がダフネを指し示す。


「はあ? 何を根拠に……」

「今朝起きたら指輪がなくなっていて、侍女たちに聞いてまわっていたら、あなたと同室の侍女が見つけてくれたわ……ねえ?」


メリンダが背後の侍女を振り返る。


「は、はい。彼女の枕の下に、ありました」


頷いた侍女の目は不自然に泳いでいた。


(濡れ衣を着せて追い出そうって魂胆ね)


ダフネは特に取り乱すこともなく、目の前で繰り広げられる芝居を達観していた。


「この指輪は、三ヶ月分のお給料をはたいて買った大事なもの……。それを盗むだなんて、到底許せません」


メリンダは右手中指の赤黒い指輪を、大事そうにそっと撫でる。

そして、今度はフィオナに鋭い眼光を向けた。

フィオナは思わず膝を握り、唇を硬く結んだ。


「お嬢様が連れてきた侍女が窃盗事件を起こした……これは由々しき事態です」


メリンダがメガネをくいっと上げると、太陽の光を反射してレンズがギラリと輝いた。


「これ以上、この者を屋敷で働かせるわけにはいきません」


ひどく冷たい目がフィオナを見下ろす。

反論を許さないとでも言うかのような、高圧的な顔つきだった。


「……」


フィオナは、メリンダの顔をまっすぐ見上げ、立ち上がった。


「ダフネは……そんなことしない」


芯の通った、透き通った声だった。

フィオナの意外な反応に、メリンダは一瞬だけ目を丸くする。


「……はあ」


しかし高圧的な態度は崩さない。

腕を組み、わざとらしく深いため息をついてみせた。


「フィオナお嬢様……現に彼女のベッドから、指輪が見つかっているのですよ」


低く、温度のない声でフィオナを諌める。


「ワガママはおやめください」

「……」


フィオナの肩が小さく揺れる。


「昔からそうやって迷惑ばかりかけて……アカデミーに行っても、何も変わらないのですね」


メリンダの言葉には、隠すつもりのない失望と蔑視が含まれていた。

風に揺れていた赤い薔薇が、ふいに花弁を落とした。


(さすがに看過できない……!)


ダフネが拳を強く握り、怒りに顔を歪める。

メリンダに物申そうと口を開いた瞬間――フィオナが、ダフネの一歩前に出た。


「ダフネの言い分も聞かずに決めつけるのは、おかしいと思う」


フィオナは静かに言った。

スカートの裾を掴む指先は少し震えている。

しかし、メリンダから目を逸らそうとはしなかった。


「ダフネ」

「はい」

「指輪を盗んだの?」

「いえ、盗んでいません」


フィオナの問いかけに、ダフネは冷静に首を振った。


「私よりもその女の言葉を信じると言うのですか!?」


メリンダが声を荒げた、その時――


「伯爵が戻られました!」


騎士が声を上げ、重い鉄の扉がゆっくりと開く。

馬の蹄の乾いた音が鳴り渡る。


先頭の白い馬に跨る大柄の男が、生垣の奥から庭園を見下ろした。


(お父様……)


伯爵の紺色の瞳と、フィオナの薄紫色の瞳が交差する。


「何の騒ぎだ」


チェロの低音のような声が、一瞬で空気を塗り替えた。



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